2019.01.29(火)その他

【Challenge to TOKYO 2020 日本陸連強化委員会~東京五輪ゴールド・プラン~】第4回 「ゴールドターゲット」に成長した競歩(1)


新しい年が明け、2020年東京五輪まであと1年7ヵ月。「いよいよ」の感は高まっている。日本陸連強化委員会のスタッフによる座談会の4回目は、「競歩」がテーマ。今や男子短距離・リレーと並んで、金メダルが期待される「ゴールドメダルターゲット」のカテゴリーに位置し、確かに近年の男子競歩の活躍ぶりはめざましい。2015年の北京世界選手権50kmで谷井孝行(自衛隊体育学校)が3位に入り、五輪を含む世界大会で初のメダルを獲得すると、翌2016年のリオ五輪50kmでは北京世界選手権で4位だった荒井広宙(自衛隊体育学校)が銅メダル。さらに、2017年のロンドン世界選手権50kmでは荒井が銀、小林快(ビックカメラ)が銅とダブル・メダルの快挙を達成した。

この日本競歩界を牽引するのが、世界選手権の男子50kmで2度(1991年東京大会7位、97年アテネ大会6位)の入賞を果たした今村文男(富士通)。当時の競歩選手は自身で強化費や遠征費を工面しながら、地道に努力を重ねて世界への扉をこじ開けてきた。今日の隆盛とは隔世の感があるが、まだマイナー種目だった頃の歴史を知る先駆者たちの苦労がベースにあることを忘れてはならない。今村オリンピック強化コーチを軸に「チーム力」を高め、成果を得てきた競歩ブロックの取り組みは、他の種目にも参考になるだろう。

 
●構成/月刊陸上競技編集部

●撮影/船越陽一郎


※「月刊陸上競技」にて毎月掲載されています。

 


(左から)杉田正明 科学委員会委員長、谷井孝行選手(自衛隊体育学校)、今村文男 男女競歩オリンピック強化コーチ、麻場一徳 強化委員会委員長

 

〝競歩改革〟のきっかけはパリ世界選手権

──競歩というと、出場した選手が次々と歩型違反で失格になって、関係者が失意に打ちのめされた2003年のパリ世界選手権が思い出されます。

今村 男女で5人出場して3人失格でした。やはり強化の原点はそこだと思います。競歩は審判員の判定を受ける種目ですから、国際審判員を招聘して歩型の研修会を開いたり、翌年からはイタリアへ選手を派遣する強化策が始まりました。

谷井 04年1月に国際審判員をお呼びして、研修会で今までなかった技術的な知識をいただき、のちにイタリアへ合宿に行きました。

今村 私がまだ現役だった1990年代は個人の合宿が中心で、競歩ブロックとしての合宿は夏と冬、それと代表派遣の時の合宿しかなかったのです。ただ、合宿といっても同じ場所でやるだけで、練習は異なります。歩型の確認ということで同じ場所でやった、という背景がありますね。ですから90年代は、ブロック強化というより、所属先の強化が中心だったと記憶しています。2000年代に入ってもその流れを踏襲して、08年ぐらいまで続きました。専任コーチの指導のもと、「所属先の強化」がキーワードだったと思います。唯一、皆で一緒にやる機会があったのはメキシコ合宿ですね。

 

──今村さんは現役を退いた後、JOC(日本オリンピック委員会)の在外研修でイタリアへ1年間留学しましたね。

今村 縁あって、05年9月から1年間、世界的にも競歩強豪国の1つであるイタリアナショナルチームトップコーチのサンドロ・ダミラノ・コーチに師事してコーチングを学びました。トップ選手に対する1年間の取り組みを目の当たりにできたことは、私のコーチングの原点でもあります。

 

──科学委員会が競歩ブロックに関わり出したのはいつ頃からですか。 

杉田 体力測定は90年代前半からです。98年から00年頃、メキシコでの高地合宿に定期的に行き、今村さんや栁澤(哲)君、池島(大介)君らのサポートをやらせていただきました。でも、00年のシドニー五輪で残念ながら競歩は結果が出なかったので、一時サポートからはずれる時期がありまして……。ところが、01年のエドモントン世界選手権で、栁澤君(当時・綜合警備保障)が20kmで初めての入賞(7位)を果たして、その時に「今までのサポートのお陰です」と言ってくれたんですね。救われた気持ちになりました。

 

──日本選手の歩型は、何がいけなかったのでしょうか。

今村 実は09年のベルリン世界選手権の時も03年と同じようなことが起きて、9名が出場して、3名が失格しました。その1人が谷井君でした。正直、谷井君や山﨑君(勇喜/当時・長谷川体育施設、現・自衛隊体育学校)が独自の活動でやっていて、我々もなかなか見る機会がなく、ある意味「出たとこ勝負」の状況でした。見るからに世界の主流とは離れてる技術だったのかな、と。つまり、後ろのキックアップが高く、膝を持ち上げるような歩型で、今ならすぐにレッドカードを出されるような歩きでしたね。

谷井 確かに、それでやられていました。悪いと感じていても直せる状況にありませんでした。

麻場 09年というと私は女子短距離に関わっていて、一緒にベルリンにも行ってるんですけど、やっぱり自分の担当種目に必死で、なかなかよそのブロックの細かいところまで目が行かなかった、というのが事実です。でも、15年の北京世界選手権あたりから競歩というのはこういう特性を持った種目だというのがわかり始めて、監督で行かせてもらったリオ五輪で強烈な印象を受けました。「こんなにタフな種目なんだ」と痛感しましたね。

 

世界選手権で2度入賞の〝今村時代〟

──世間的に競歩の認知度が高まったのはメダルを取ってからだと思いますが、今村さんが現役当時はどんな練習をしていたのですか。 

今村 今のようにインターネットがあるわけではないですし、海外からの情報を集める手段がなかったんです。現地に行って、見て、聞いて、実践する。また、日本に持ち帰って、実践する。行った先では必ずナショナルチームの選手、コーチの下で学びました。世界のトップの歩きや国際大会に向けた準備を目の当たりにして、情報を拾いましたね。

谷井 私はそれまでは感覚的なものでやってきていたので、イタリアの研修合宿に行くと感覚的なものが言語化され、しっかり技術として落とし込まれていて、結構とまどいが生じましたね。今まで感覚的に「これはいい」と思ってきたものを、「骨盤の動きはこうだよ」などと言語化されていることに対して、感覚と身体の動きが噛み合わなくなってきたというか……。自分自身が考え過ぎてしまって、対応しきれなかった時期がありました。

 

──今村さんは、その感覚的なもので2度の世界選手権入賞にこぎ着けたのですか。

今村 私は当時メキシコで、選手個人やコーチに聞きながら身体の使い方を学び、動きづくりも積極的にやっていたのです。そこでつかんだものが大きいと思います。

 トレーニングの方法は、私のステージの中でオリンピック・サイクルがあって、92年のバルセロナあたりはメキシコでやってきたものを踏襲してました。さらに上を目指すには? となった時に、バルセロナ五輪の男子マラソンで森下選手(広一/旭化成)が銀メダルを取りましたね。「だったら、旭化成のトレーニングを学んでみよう」ということで、宗さん兄弟(茂・猛)のところへ行きました。

 



──マラソン練習を競歩に置き換えた?

今村 そうです。ポイント練習のトレーニング強度を競歩に置き換えて、92年までのサイクルでは1回しか出せなかった日本新を、次の96年までのサイクルでは2回出しています。「これは順調かな」と思ったら、最終的に練習を欲張り過ぎて、96年のアトランタ五輪には出られませんでした。そこで、トレーニングは量ばかりじゃないんだなと気づきました。コンディショニングと歩き方ですね。97年から02年は、技術指導に定評のあるスペインナショナルコーチのジョルディ・リョパルト・コーチの下で強化を図っていました。

杉田 競歩もマラソンも基本的には持久系の種目ですからトレーニング内容は似ていると思いますが、違うのは技術的なトレーニングをどう組み込むか。そこに競歩の難しさがあると思います。



『第4回 「ゴールドターゲット」に成長した競歩(2)』に続く…

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