写真提供:アフロスポーツ
日本陸連では、2020年から学生競技者を対象に、陸上競技のパフォーマンス向上と個人としてのキャリア自立の両面に寄与する「ライフスキルトレーニングプログラム」を実施してきました。これは、アスリートがもともと備えている「ライフスキル」(自分の“最高”を引き出す技術)を知識として身につけ、目的に応じて使いこなせるようにトレーニングすることで、競技力の向上はもちろんのこと、人生のあらゆる場面で自身の可能性を最大限に引き出し、活躍していける人材の育成を目的とするもの。これまでに合計33名の学生アスリートが受講し、さまざまな形で成果を上げています。
今年も、第4期生の募集が11月1日からスタートしました。「何を学べるんだろう?」「応募してみようかな」と思案中の学生アスリートの皆さんに向けて、ここでは3期生として昨年12月から今年3月まで展開されたプログラムを受講した競歩の梅野倖子選手(順天堂大学)のインタビューをお届けします。梅野選手は、今季初の日本代表入りを果たし、重要競技会に位置づけられていたアジア選手権、世界選手権、アジア大会のすべてに出場。アスリートとしてのキャリアを大きくステップアップさせる1年を過ごしましたが、その躍進の背景には「ライフスキルトレーニング」が大きく影響していると言います。いったい、梅野選手にどんな変化が生じたのでしょうか?
「自分に足りないものは何か」に気づけたことで「自身の考え方」そのものが大きく変わった
―――梅野選手は、大学2年の昨年9月の日本インカレで優勝を果たしたあと、練習や試合で「なんかしっくりこない」状態が続いていたタイミングでライフスキルトレーニングプログラムを知り、受講を決意したと聞きました。
梅野:全く調子が上がらない状態が続いたことは1年生のときにも経験があったんです。そのときは、環境を変えて男子競歩ブロックに加わることにし、森岡(紘一朗)コーチと練習内容や自分の目指していくところなどを話し合ったりするなかで、少しずつ練習がしっかりできるようになっていきました。その結果、昨年の日本インカレで優勝できたのですが、そこからまた練習していても「なんかしっくりこない」という感じに陥ってしまったんですね。目標がないわけじゃないんですが、それが形になっていないように感じたり、練習もただこなしているだけという気がしたり、きちんとやっても次につながっている自信が持てなかったり…。何が良くないのか、どうすれば変えられるのかも自分では全然わかりませんでした。ライフスキルトレーニングプログラムの存在は、ちょうどそのタイミングで教えていただいたんです。ホームページに書かれていた「自分の“最高”を引き出す技術を身につける」という内容を読んで、「まだ自分は、“自分の最高の力”を引き出せていないんだろうな」と感じました。そして、自分の奥底に眠っている最高の力ってどのくらいあるのか、どこまで出せるのかを知りたい。どうやればその力を引き出せるのかを知りたいと思い、応募することを決めました。
―――2月に行われた3回目の全体講義のあと、「自分の取り組みが、実行・結果の行き来だけになっていた点に気づいた」と話していましたね。
梅野:そうなんです。自分は高校のころからずっと、「実行」と「結果」を繰り返すだけだったんだなと気づくことができたんです。講義を受けたことで、実行して結果が出たあとに、その過程を振り返って「何がダメだったのか、何がよかったのか」を分析し、それを踏まえて、「ここをこうしたら、もっと良くなるんじゃないか」を考えて次の実行に取り組んでいけるようになりました。
―――まさに「仮説思考」(仮説を立てて、それに基づき実行し、その結果を分析して、新たな仮説を立てて、再び実行していくというサイクルを回すこと)の方法ですね。以前は、できていなかったのですか?
梅野:できてなかったというよりは、分析する発想自体がなかったことに気づいたという感じです。練習でも出された内容をやるだけでしたし、一つの試合が終わったら次の試合に向かっていくだけで、そのときの自分の動きやタイムを反省はしても、それをどう次につなげるかまで考えていませんでした。そこを自分で振り返って、考えてみたり確認したりということが少しずつできるようになり、次の試合に生かせるようになってきました。
目標を設定し、目標を使いきる
―――そのあたりは、「目標の設定」や「目標の使いきり方」も関連してきそうですね。「ダブルゴール」について学んだ際、梅野さんだけでなく受講生全員が割と苦労していたことだったように思います。特に「小さい目標」の設定の仕方で…。
梅野:はい。自分も、最初は“大きい目標1つだけ”という感じたったんです。「次の試合でこのタイムを出す」とか「この順位を取る」とか。でも、その途中で「今日はこれだけはやる」とか「1週間で最低限これだけは」といったように、小さい目標を立てられるようになってからは、やるべきことが具体的になって、確実に行動できるようになりましたね。最終的な大きい目標を叶えるために、小さい目標をつくって、それを少しずつ達成することで、大きい目標に近づいていくことができたな、と。
―――具体的に、どんなことをやってみた?
梅野:目標はしっかり考えたなと思います。ライフスキルトレーニングの講義を受けていた段階(2022年12月~2023年3月)では、今年、日本代表になれるとは全く思っていなかった(笑)ので、大きい目標としては「(2024年)パリオリンピックに出場する」とか「(2025年)東京世界陸上に出場する」というのを設定して、その過程で、「代表選考レースとなる日本選手権で結果を残す」とか、「少しでもワールドランキングの順位を上げるために1時間30分台のタイムは出す」とかを考えました。さらに、それを実現するために…ということで、毎日の練習での一番最低限の目標として「毎日、必ず12km以上は歩く」と決めて実行しました。「どんなに気持ちが入らない日でも最低12kmは歩こう」「一度に歩くのが無理なら、朝と午後で6kmずつに分けてもいいから歩こう」といったように確実に達成していける(小さい)目標を置いたことでクリアできました。そのほかにも、ポイント練習などでも、「このくらいのタイムで行こう。届かなくても、最低限このタイムはクリアしよう」といったような目標のつくり方ができるようになりました。
―――それは、今までできていなかったわけですね?
梅野:全くできていなかったです(笑)。とりあえず言われた練習をして、試合があるから出て、このくらいのタイムを出すために歩こう、頑張ろうというだけになっていて、「その試合で、何分で歩くために、これをしなければいけない」という考え方ができていなかったし、逆に、目標に向かって段階を踏んでいくことができていなかったんですよね。そこは大きく変えることができた点だと思います。
目標に近づくために数多くの「仮説の種」を見つける
写真提供:フォート・キシモト
―――そうした梅野選手の変化は、今季の競技成績に現れたように思います。2月に行われた日本選手権(1時間38分30秒・5位)の段階では先が見えない状況でしたが、3月の全日本競歩能美大会では自己新記録(1時間33分38秒)をマークして3位に。この結果、まず、5月の段階でアジア選手権(7月、バンコク)への出場が決まり、その後、6月にアジア大会(9月、杭州)の日本代表にも選出されました。
梅野:将来的に、日本代表として活躍したい。最終的にはオリンピックとか世界陸上とかで、しっかり結果を出せるようになっていきたいという思いは持っていましたが、今年、代表になれるとまでは思っていませんでした。でも、出場できることになった以上は、そこでしっかり自分の力を発揮したいなと思って、そこに向けて、しっかりと練習に取り組めたと思います。
―――そして、初めてナショナルチームのユニフォームを着て出場したアジア選手権では、見事銅メダルを獲得。結果的に、それがブダペスト世界選手権への出場も引き寄せました(ワールドアスレティックスによる出場資格者の追加により、大会直前の8月上旬に出場が確定)。実は私、バンコクでレース後に話を伺った際、梅野選手が、自分の状況を明確に把握していたこと、「こうしよう」と具体的な取り組みを考えた上でレースに臨んでいたこと、実際にそれができたかどうかや次の課題は何かを分析したうえで自分の言葉で話してくれたこと(※アジア選手権メダリストコメント:https://www.jaaf.or.jp/news/article/18621/)に驚いたんです。これは、ライフスキルトレーニングが影響しているのかなと思ったのですが…。
梅野:影響していると思います。自分の今の状況をしっかりと把握することができるようになったかな…と。受講するまでは、本当に「やるだけ」で終わっていたことが、例えば、試合の結果を踏まえて、そこからどうしていこうというように、自分のなかで整理整頓して考えていけるようになりました。自分のことを少し客観的に見られるようになったというか、そういうことができるようになってきましたね。
―――その後は、8月にブダペスト世界選手権(35位)を歩き、そして9月にはアジア大会(4位)を歩き…と、毎月1本、20kmの国際レースに出場するという超ハードなスケジュールとなりました。さぞかし大変だったとは思うのですが、出場してみなければわからないこともあったはず。何か学んだこと、実感したことはありますか?
梅野:「まだまだ世界との差は大きいなあ」ということを痛感しましたね。でも、痛感はしたのですけど、今までだったら「やっぱり上位入賞する人たちは違うなあ、強いなあ」だけで終わっていたはず。そこを、「ああなるために自分に足りないものは何か」を考えたり、「あの選手は、どういうことをしているのか」とウォーミングアップや試合以外の動きや行動を観察して自分に取り入れられるかどうかを考えたりと、「その人に近づくために、今の自分にできることは何か」を考えている自分がいました。「あの動きを練習で取り入れてみたら、自分はどうなるだろうか」とか(笑)。
―――たくさんの「仮説」の種を見つけることができたようですね。
梅野:そうですね。特にアジア大会は、記録だけみると不甲斐ない結果になってしまったという思いもあるのですが、それ以上に得られたものがたくさんあって、タイムや順位がすべてではない自分にとっての大きな収穫があったと思っています。
「すごいな」と思うことを自分ができるようにしていく
写真提供:フォート・キシモト
―――実際に、この冬、「これをやりたい」「ここをもっとこうしよう」と思ったことはありますか?
梅野:根本的な力の差を感じて、もっと強化していかなければ…と思いましたね。自分の歩き方…腕振りとか足の出し方とかいうところから見直して、理想とする歩きを定着させていかなければならないし、それを最後まで維持して20km歩き通せる体力や筋力…フィジカル面全般を強化していかなければならないと思いました。冬に向かうこれからの練習では、長い距離を歩くことが増えてくるのですが、そのときにも一定のタイムで歩くんじゃなくて、少しでも去年より速いタイムで歩くことを意識しています。あとはメンタル。試合中にタレてきた(思い通りにペースを維持できなくなる状態)ときでもネガティブな気持ちにならず、どれだけ強い気持ちで前を向いて、1つでもいい順位を、いい歩きを目指せるか、ですね。
―――ブダペスト世界選手権後は、筋力トレーニングの必要性についても話していました。
梅野:そこはもう、以前からずーっと(笑)、コーチにも言われていることなんです。肩や腕、肩甲骨まわりが細いから、なかなか思うような力強い腕振りができていないし、お尻まわりや太ももの筋力が弱いために、疲れてきたときにパタパタした、浮いてしまうような足どりになってしまうんだ、と。世界選手権で入賞経験を持つ岡田さん(久美子、富士通)や藤井さん(菜々子、エディオン、ダイヤモンドアスリート修了生)さんに比べても弱いと思っていましたが、今回、他国の強い選手と一緒に歩いて、改めて実感しました。以降、骨盤まわりの筋肉を強めるトレーニングに取り組んでいますし、もっと小さなことでいえば鉄棒にぶら下がり続けることもやるようになりました。恥ずかしいけれど、最初は10秒間でもつらくって…(笑)、まずは15秒頑張ろう、それができたら次はもう少し長くしてみようといった感じで取り組んでいます。そういった1人でもできる地道なことを大切にしていけるようになりましたね。
―――周りの人からは「変わったね」と言われませんか? 森岡コーチは?
梅野:「まだまだだね」って言われます(笑)。「まだまだ、もっとできる」って(笑)。
―――なかなか厳しいですね(笑)。まあ確かに、順天堂大学の場合、陸上部全体のレベルが高いうえに、競歩に限っていえば世界記録保持者(鈴木雄介=富士通、20km競歩:1時間16分36秒)をはじめ世界で活躍している先輩がたくさんいる環境ですから…。ただ、トレーニングはもちろん、意識レベルを高くする上でも、すごく恵まれていますよね。影響を受けたり、刺激になったりしていることもあるのでは?
梅野:それはあります。毎週、1週間の練習実績を出すのですが、例えば、住所さん(大翔、順大大学院。オレゴン世界選手権8位入賞)と比べると、自分の歩いている距離はすごく少ないんです。20kmを歩くためには、日々のなかでしっかりと距離を歩いていることが必要で、世界陸上で活躍している人たちは、自分の何倍も練習しているんだと気づかされました。もちろん男女の差はあるかもしれないけれど、本当に世界で戦っていこうとするなら、そのくらい練習することが必要で、同じようにはできなくても、自分も少しずつ設定距離を増やしていこうという行動につながりました。
―――それが、先ほど小さい目標のところで話してくださった「1日12km」ということなのですね。
梅野:はい。男子の競歩ブロックで練習するようになったのは昨年の6月からなのですが、その時点では、「わー、たくさん歩いているな。すごいな」とは思ったけれど、自分の行動に落とし込んでいくことはできていませんでした。そこが、この1年で変わったことかなと思いますね。
―――ものの見方や捉え方の幅がすごく広がって、それを自分に取り入れるためにどうするかを、さまざまな視点で考えられるようになっている印象を受けました。
梅野:なりましたね。今までだったら、単に「すごいな」で終わっていたところを「自分がそうするにはどうしたらいいのか」と考えるようになっています。
―――そうした変化があったなかで、今年日本代表として国際レース経験を積んだことは、必ず今後に生きてくると思います。いよいよ来年はオリンピックイヤーとなるわけですが、どんな目標を立てていますか?
梅野:来年のパリ五輪は、個人種目の20km競歩で、しっかり出場権を獲得したいと思っています。参加標準記録にはまだ少し遠いし、周りも強い選手ばかり。厳しい戦いになることはよくわかっているのですが、オリンピックには絶対に出たい。だから、それを実現させるために逆算して、いつ、どんな練習をしていくかをコーチとも話していますし、練習以外の場面でも自分ができることを探して取り組み、少しでも力をつけられるようにしようと心掛けています。
ライフスキルトレーニングを実践することで考え方や行動は変えられる
写真提供:フォート・キシモト
―――ライフスキルトレーニングプログラムは、先日、第4期生の募集が始まりました。受講してからのこの1年の経験を踏まえて、応募を考えている学生の皆さんに、何か伝えたいことはありますか?
梅野:ライフスキルトレーニングプログラムを受けたことで、自分はすごく考え方を変えることができました。陸上選手としての今年の結果だけでみれば、国際大会に出られたということが成果といえるのかもしれませんし、出場できたことはもちろん嬉しかったけれど、自分としては、この1年で考え方や行動を変えられたことが、これからの人生で大きく生きてくるのではないかと感じています。競技面だけでなく、生活のあらゆる場面、そしてたぶん今後のキャリアなどにも活用していけることを、本当にたくさん学べました。ぜひ、多くの方に知ってもらえたらと思うし、チャンスがあるなら経験してほしいなと思います。
―――今回伺った梅野選手のお話には、講義で紹介された概念や手法がさまざまな形で反映されていて、梅野選手がライフスキルトレーニングで学んだ「自分の“最高”を引き出す技術」を、テクニックとして使いこなそうとしているなと感じました。それは、アスリートとしてだけでなく、今後、あらゆる場面で梅野選手の「強み」になってきそうですね。さらなる活躍を楽しみにしています。本日はありがとうございました。
(2023年11月2日収録)
取材・構成:児玉育美(日本陸連メディアチーム)
■受講生インタビュー
<Vol.1>福島聖:社会人として生かせているスキル、就職活動や競技面に繋がった経験を語るhttps://www.jaaf.or.jp/news/article/17053/
<Vol.2>中島佑気ジョセフ:活躍の糸口となった経験、更なる飛躍に向けた想いを語る
https://www.jaaf.or.jp/news/article/17064/
<Vol.3>樫原沙紀:「なりたい自分」を見つめ直し、新たな一歩を踏み出す
https://www.jaaf.or.jp/news/article/17070/
■第3期ライフスキルトレーニングプログラム 実施レポート&受講生コメント
第1回 ~目標設定の大切さとトップアスリートの仕事における強み~https://www.jaaf.or.jp/news/article/17305/
第2回 ~オリンピックメダリストに共通する5つの特徴~
https://www.jaaf.or.jp/news/article/17538/
第3回 ~社会でも活かせるトップアスリートの能力~
https://www.jaaf.or.jp/news/article/17562/
第4回 ~重要な時に力を発揮する「獲得型思考」~
https://www.jaaf.or.jp/news/article/17642/
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