2020年東京オリンピック、その後の国際競技会での活躍が期待できる次世代の競技者を強化育成する「ダイヤモンドアスリート」制度。単に、対象競技者の競技力向上だけを目指すのではなく、アスリートとして世界を舞台に活躍していくなかで豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本および国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、2014-2015年シーズンに創設されました。すでに3期が終了し、これまでに9名が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11名が認定され、第4期がスタートしています。
ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第8回は、3000mの髙松智美ムセンビ選手(大阪薫英女学院高校→名城大学)です。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/フォート・キシモト
大好きな姉の背中を追いかけて
――髙松さんのお父さま、マクセル・ムセンビさんは元マラソン選手で、長野マラソン優勝の実績をお持ちです。また、お姉さんの髙松望ムセンビ選手(現:大阪陸協)も中学時代からトップで活躍し、高校時代には3000mで2014年世界ジュニア選手権(現U20世界選手権)4位、同年のユースオリンピック3000mでは金メダルを獲得しています。智美さんが陸上を始めたのはお父さまの影響で? どんなきっかけだったのですか?
髙松:小学1・2年のときは硬式テニスを習っていて、でも、そのクラブが閉鎖になってしまったんです。そんなときに姉が陸上クラブに入ることになり、姉が行くなら私も…とついていったのが始まりです。小学3年生のときでした。
――それが万博アスリートクラブですね。
髙松:はい。それまで姉はずっと父と練習をしていて、私も一緒に練習したいと言っていたのですが、小さかったこともあり、「ついていけないからダメ」とやらせてもらえなかったんです。きっと父は、クラブで練習するのなら自分がついていなくても安心と考えたのだろうと思います。私のほうは、父と姉が一緒に練習している姿を見て、ずっと「いいな、自分も走りたいな」と思っていたので嬉しくて、(クラブの活動にも)すんなりと入ることができました。
――小学生のときは、大会に出ていたのですか?
髙松:万博アスリートクラブに入ってから、試合に出ることが多くなりました。低学年のころは短距離も長距離も分かれていなかったので、どちらも楽しみながらやっていましたね。リレーにも出ましたし、あとはクロスカントリーや、SBマラソン(S&B杯ちびっ子健康マラソン大阪大会)にも出ていました。(序盤から先頭を走る)姉の走りの真似をして飛ばしすぎて、途中から(失速して)走れなくなってしまったこともありました(笑)。
――中学も、お姉さんを追って大阪薫英女学院へ?
髙松:そうです。薫英に行った姉が全国大会で走るのを見て、すごいなあと思っていたんです。私にも推薦の声をかけていただけて、すごく人見知りの私は、最初は地元の友達と離れてしまうと迷ったのですが、陸上ができるのなら…と行くことにしました。
――中学では、1年時から全日本中学校選手権に出場して、1500mで4位の成績を収めています。
髙松:3000mがなかったので、800mと1500mをやっていました。全中は1500mに出ましたが、ジュニアオリンピック(Cクラス)は800mしかなくて、準決勝で落ちています。
――中2になると、全中1500mで中2歴代2位となる4分23秒07をマークして2位に。初の全国チャンピオンになったのが、中学3年のときのジュニアオリンピックですね。Aクラス3000mで中学歴代7位となる9分17秒60をマークして優勝を果たしています。距離は徐々に長くしていったのですか?
髙松:そうですね。3000mは、初めて挑戦した中2の秋のときに9分22秒0(中2最高)が出て、「あ、意外と3000mは向いているかも」と思っていたんです。走る前は「7周半も走れるのかな」と不安でしたが、初めてだったのがよかったのか、けっこうすいすい走れてしまって…(笑)。それで自信がついて、「来年のジュニアオリンピック、頑張ろう」と思っていました。
――では、中3のときは、3000mも意識しながら1500mに取り組んでいたのですね。6月には1500mで2014年中学リスト1位となる4分19秒96もマーク。これは中学歴代3位となる好記録でした。それだけに、全中で勝てなかったことは悔しかったのではないですか?
髙松:はい。中3のときは、(1500mで)優勝した田中希実選手(小野南中)がどんどん伸びてきていたので、全中では絶対に負けたくないって思っていたのですが、後半で負けてしまいました。前年の全中と同じ展開だったので、とても悔しかったです。
――2年生のときも、厳しい暑さのなか1200mまでハイペースで引っ張って、最後で負けてしまっていたから…。
髙松:そうなんです。だから全国で1番になるのは、もうジュニオリしかないと思って、そこでは絶対に勝ちたいと思っていました。
――そして、中学シーズン最後の大会で自己記録を大幅に更新。見事な全国初優勝を果たしたわけですね。
――2015年には、薫英女学院高校に入学しました。
髙松:駅伝をしっかり走ってみたいと思っていたこともあって、そのまま高校に進みました。
――その言葉の通り、全国高校駅伝も3年連続で出場し、どの年も大幅に順位を引き上げる走りを見せました。2年時には優勝を果たしていますし、1年・3年時は3位。1年生のときは姉の望選手にタスキをつなぎました。
髙松:1回優勝することもできましたし、全国で戦えたことは、すごく楽しかったです。中学のときは人数が少なくて、全国中学駅伝のことは知っていたけれど、駅伝というのがどういうものがよくわからなかったので。
――駅伝自体は、中学3年の時の全国都道府県女子駅伝(3区区間賞)が初めてだったのですか?
髙松:そうなんです。中学のときは、駅伝シーズンというのは私にはなくて、クロカンシーズンに1回ちょっと駅伝を走るだけという感覚だったんですね。だから、駅伝をやっているほかの中学生がうらやましくて。「いいな、やりたいな」と思っていました。
――トラックシーズンのほうでは、インターハイ路線では3000mをメインに据えて、1500mと3000mに取り組んできました。3000mでは、高校2年のインターハイで高校歴代3位となる8分58秒86まで自己記録を更新しています。
髙松:トラックのほうでは、強くなってくる選手が中学のときより増えてきて、なかなか上位に行けませんでした。でも、高校では留学生選手と一緒に走れる機会があり、日本にいながら海外の力を感じることもできました。
――ご自身のなかで最も印象深いのは?
髙松:やはり2年の岡山インターハイですね。初めて8分台が出たのですが、「諦めなくてよかった」というのが一番記憶に残っています。
――ヘレン・エカラレ選手(仙台育英高)が8分55秒06で優勝、2位のカマウ・タビタ・ジェリ選手(神村学園高)が8分58秒35。髙松さんは8分58秒86で日本人トップの3位という結果でした。留学生が序盤から飛ばしたなか、髙松さんは2200mまでついていくレースを展開しました。終盤は、諦めてしまってもおかしくないような状態だったのですか?
髙松:はい。ラスト500mのときに、そこまでずっと負けていた田中希実選手(西脇工高、4位:9分01秒40)が前にいたので「もしかしたら勝てるかも」という気持ちで抜いて、自分がイメージした形でフィニッシュできました。最後で離されはしたけれどエカラレさんに食らいつくことができ、気づいたら8分台も出ていて…。一番気持ちよく走れたレースでした。
――3年の山形インターハイのときは、9分05秒26で6位(日本人3位)という結果でしたね。こちらどう評価していますか?
髙松:2年のインターハイのときは、(ハイペースで飛ばした)留学生選手についていって出た結果でしたが、3年生のときは自分で考えて、力の限りを出すことができました。記録は悪かったけれど、最低限の入賞は果たせたので、まずまずだったかなと思っています。
――さて、中学3年の冬の段階でダイヤモンドアスリートに選ばれていた髙松さんにとっては、高校時代はダイヤモンドアスリートとして過ごした3年間でもありました。11人いた第1期メンバーの最年少でしたが、当時、選ばれたと聞いたときは、どんな気持ちでしたか?
髙松:顧問の安田(功)先生から言われたのですが、詳しいことがよくわからなくて、「あ、そうなんや」という感じでした。でも、クラスのみんながとても喜んでくれて、それが嬉しかったですね。
――ダイヤモンドアスリートになったことで、何か変化したことはありますか?
髙松:「選ばれているから頑張らないと」と気負ってしまう面はあるのですが、ほかのダイヤモンドアスリートの方々の活躍が、すごく刺激になっていますね。それが一番大きいかもしれません。
――高校1年の冬には、安藤財団が行うグローバルチャレンジの支援を受け、単身でアルバカーキ(アメリカ)へ行き、約1カ月間、現地で生活しながらトレーニングすることも体験しました。
髙松:コーチが指導している高校の選手たちと一緒に練習したり、ホームステイ先のホストファミリーが経営するスポーツクラブでトレーニングしたり、現地の学校に通ったりしました。自分のこれからに役立つことを、たくさん経験することができたなと感謝しています。今でもコーチは、ずっと応援してくれていて、私が活躍したときは、それをほかの人たちにも紹介してくださるんです。そういう関係が続いていることは、とても自分の励みになっています。
――髙松さんは、日本で生まれたのですか?
髙松:ケニア生まれです。日本には1歳になってから来ました。
――ケニアに帰ったことは?
髙松:まだ1回もないんです。だから、去年、世界クロカンでウガンダに行けたときは、すごく嬉しかったです。ウガンダはケニアの隣ですごく近い国なので、そこでケニアの選手と走れたことも、叔父が応援に駆けつけてくれたことも本当に嬉しかったですね。
――ご家族の話を聞かせてください。小学生ころの話を伺った感じだと、小さいときから生活のなかに「走る」や「スポーツ」が当たり前にある環境だったのかなと思いましたが…。
髙松:そうでした。姉も、水泳や新体操もやっていましたし、走るだけでなくスポーツに関して、家族みんなが「頑張ろう」という感じでしたね。
――小さいころは「ついていけないからダメ」と言われた練習も、その後、お父さまに指導してもらえるようになったのですね?
髙松:はい(笑)。練習は、中学3年までは朝練だけ学校でやっていましたが、高校のときは、朝も夜も、父と姉と一緒にやっていました。
――高校の陸上部の練習とは別で?
髙松:はい。遠征とか合宿のときだけ一緒に練習するという形でやらせてもらっていました。
――練習は、ご自宅の周辺で? どんな場所を利用するのですか?
髙松:河川敷にグラウンドがあるのでそこで走ったり、あとは公園を利用したり。いろいろな所を練習場所にしていました。そういう意味で、とてもいい練習環境でしたね。
――お父さまがコーチだと、大変なときもあるのでは?
髙松:いいえ、自分にとっては、すごくよかったです。一緒に過ごせる時間も長いし、例えば「今日はここが痛かった」というようなことも、家族だからすんなり言えます。いろいろなことを相談しながらやってくることができました。
――お母さまは、どうですか?
髙松:母は応援専門です。ほかの選手の記録とか結果とかを調べて教えてくれたり、いろいろな刺激をくれています。
2018年の目標は、アジアジュニアとU20世界選手権
――この春からは大学生。名城大で競技を続けます。住まいも大阪から名古屋へ。大きく環境が変わることになりますね。
髙松:はい。家を出て、寮で生活します。練習のやり方も、父の練習とは変わってきますし、自分できちんと考えてやっていかなければならないことが増えてくると思うので、早く新しい環境に対応していきたいです。
――名城大にしたのは?
髙松:大学に入るからには勉強もちゃんとしたいと思っていて、自分のやりたい勉強ができて、陸上も継続できるということで決めました。
――学部は?
髙松:外国語学部です。将来、英語を使った仕事をしたいと思っているので。
――大学での目標は?
髙松:1つ1つの試合でちゃんと結果を出すことを目指しています。今年は、アジアジュニアとU20世界選手権があるので、これらの大会で頑張りたいです。また、米田(勝朗)監督からは、大学2年生のときにあるユニバーシアードを狙えると言われているので、そこも目標になってきます。そうやって、1つ1つクリアしていって、いろいろな世界大会に日本代表で出られるようになっていきたいです。
――「ここを改善していきたい」というようなところはあるのですか?
髙松:強い選手の走りを見ると、すごく体幹がしっかりしていて、フォームがきれいなので、自分もまず体幹から鍛えて、もっときれいな走りができるようになれたらな、と。
――バネがあって、伸びやかな、いい走りだと思うのですが?
髙松:全然です。手の振りが悪いし、バネというのも勢いがあるときはいいけれど、疲れてくるとピョンピョン跳んでいるだけになって、後半足が回らなくなってしまいますから…。これからはレースの距離が5000mになってくるので、最後まで力強い走りができるようにしなければなりません。
――これから戦いの場はシニアに移ってきますものね。力強さを増した走りが見られることを楽しみにしています。
髙松:ありがとうございます。頑張ります。
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ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第8回は、3000mの髙松智美ムセンビ選手(大阪薫英女学院高校→名城大学)です。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/フォート・キシモト
大好きな姉の背中を追いかけて
――髙松さんのお父さま、マクセル・ムセンビさんは元マラソン選手で、長野マラソン優勝の実績をお持ちです。また、お姉さんの髙松望ムセンビ選手(現:大阪陸協)も中学時代からトップで活躍し、高校時代には3000mで2014年世界ジュニア選手権(現U20世界選手権)4位、同年のユースオリンピック3000mでは金メダルを獲得しています。智美さんが陸上を始めたのはお父さまの影響で? どんなきっかけだったのですか?
髙松:小学1・2年のときは硬式テニスを習っていて、でも、そのクラブが閉鎖になってしまったんです。そんなときに姉が陸上クラブに入ることになり、姉が行くなら私も…とついていったのが始まりです。小学3年生のときでした。
――それが万博アスリートクラブですね。
髙松:はい。それまで姉はずっと父と練習をしていて、私も一緒に練習したいと言っていたのですが、小さかったこともあり、「ついていけないからダメ」とやらせてもらえなかったんです。きっと父は、クラブで練習するのなら自分がついていなくても安心と考えたのだろうと思います。私のほうは、父と姉が一緒に練習している姿を見て、ずっと「いいな、自分も走りたいな」と思っていたので嬉しくて、(クラブの活動にも)すんなりと入ることができました。
――小学生のときは、大会に出ていたのですか?
髙松:万博アスリートクラブに入ってから、試合に出ることが多くなりました。低学年のころは短距離も長距離も分かれていなかったので、どちらも楽しみながらやっていましたね。リレーにも出ましたし、あとはクロスカントリーや、SBマラソン(S&B杯ちびっ子健康マラソン大阪大会)にも出ていました。(序盤から先頭を走る)姉の走りの真似をして飛ばしすぎて、途中から(失速して)走れなくなってしまったこともありました(笑)。
――中学も、お姉さんを追って大阪薫英女学院へ?
髙松:そうです。薫英に行った姉が全国大会で走るのを見て、すごいなあと思っていたんです。私にも推薦の声をかけていただけて、すごく人見知りの私は、最初は地元の友達と離れてしまうと迷ったのですが、陸上ができるのなら…と行くことにしました。
――中学では、1年時から全日本中学校選手権に出場して、1500mで4位の成績を収めています。
髙松:3000mがなかったので、800mと1500mをやっていました。全中は1500mに出ましたが、ジュニアオリンピック(Cクラス)は800mしかなくて、準決勝で落ちています。
――中2になると、全中1500mで中2歴代2位となる4分23秒07をマークして2位に。初の全国チャンピオンになったのが、中学3年のときのジュニアオリンピックですね。Aクラス3000mで中学歴代7位となる9分17秒60をマークして優勝を果たしています。距離は徐々に長くしていったのですか?
髙松:そうですね。3000mは、初めて挑戦した中2の秋のときに9分22秒0(中2最高)が出て、「あ、意外と3000mは向いているかも」と思っていたんです。走る前は「7周半も走れるのかな」と不安でしたが、初めてだったのがよかったのか、けっこうすいすい走れてしまって…(笑)。それで自信がついて、「来年のジュニアオリンピック、頑張ろう」と思っていました。
――では、中3のときは、3000mも意識しながら1500mに取り組んでいたのですね。6月には1500mで2014年中学リスト1位となる4分19秒96もマーク。これは中学歴代3位となる好記録でした。それだけに、全中で勝てなかったことは悔しかったのではないですか?
髙松:はい。中3のときは、(1500mで)優勝した田中希実選手(小野南中)がどんどん伸びてきていたので、全中では絶対に負けたくないって思っていたのですが、後半で負けてしまいました。前年の全中と同じ展開だったので、とても悔しかったです。
――2年生のときも、厳しい暑さのなか1200mまでハイペースで引っ張って、最後で負けてしまっていたから…。
髙松:そうなんです。だから全国で1番になるのは、もうジュニオリしかないと思って、そこでは絶対に勝ちたいと思っていました。
――そして、中学シーズン最後の大会で自己記録を大幅に更新。見事な全国初優勝を果たしたわけですね。
夏はトラック、冬は駅伝で活躍
3000mで8分台に突入した高校時代
――2015年には、薫英女学院高校に入学しました。
髙松:駅伝をしっかり走ってみたいと思っていたこともあって、そのまま高校に進みました。
――その言葉の通り、全国高校駅伝も3年連続で出場し、どの年も大幅に順位を引き上げる走りを見せました。2年時には優勝を果たしていますし、1年・3年時は3位。1年生のときは姉の望選手にタスキをつなぎました。
髙松:1回優勝することもできましたし、全国で戦えたことは、すごく楽しかったです。中学のときは人数が少なくて、全国中学駅伝のことは知っていたけれど、駅伝というのがどういうものがよくわからなかったので。
――駅伝自体は、中学3年の時の全国都道府県女子駅伝(3区区間賞)が初めてだったのですか?
髙松:そうなんです。中学のときは、駅伝シーズンというのは私にはなくて、クロカンシーズンに1回ちょっと駅伝を走るだけという感覚だったんですね。だから、駅伝をやっているほかの中学生がうらやましくて。「いいな、やりたいな」と思っていました。
――トラックシーズンのほうでは、インターハイ路線では3000mをメインに据えて、1500mと3000mに取り組んできました。3000mでは、高校2年のインターハイで高校歴代3位となる8分58秒86まで自己記録を更新しています。
髙松:トラックのほうでは、強くなってくる選手が中学のときより増えてきて、なかなか上位に行けませんでした。でも、高校では留学生選手と一緒に走れる機会があり、日本にいながら海外の力を感じることもできました。
――ご自身のなかで最も印象深いのは?
髙松:やはり2年の岡山インターハイですね。初めて8分台が出たのですが、「諦めなくてよかった」というのが一番記憶に残っています。
――ヘレン・エカラレ選手(仙台育英高)が8分55秒06で優勝、2位のカマウ・タビタ・ジェリ選手(神村学園高)が8分58秒35。髙松さんは8分58秒86で日本人トップの3位という結果でした。留学生が序盤から飛ばしたなか、髙松さんは2200mまでついていくレースを展開しました。終盤は、諦めてしまってもおかしくないような状態だったのですか?
髙松:はい。ラスト500mのときに、そこまでずっと負けていた田中希実選手(西脇工高、4位:9分01秒40)が前にいたので「もしかしたら勝てるかも」という気持ちで抜いて、自分がイメージした形でフィニッシュできました。最後で離されはしたけれどエカラレさんに食らいつくことができ、気づいたら8分台も出ていて…。一番気持ちよく走れたレースでした。
――3年の山形インターハイのときは、9分05秒26で6位(日本人3位)という結果でしたね。こちらどう評価していますか?
髙松:2年のインターハイのときは、(ハイペースで飛ばした)留学生選手についていって出た結果でしたが、3年生のときは自分で考えて、力の限りを出すことができました。記録は悪かったけれど、最低限の入賞は果たせたので、まずまずだったかなと思っています。
出会いと経験をもたらした
アルバカーキ単身“武者修行”
――さて、中学3年の冬の段階でダイヤモンドアスリートに選ばれていた髙松さんにとっては、高校時代はダイヤモンドアスリートとして過ごした3年間でもありました。11人いた第1期メンバーの最年少でしたが、当時、選ばれたと聞いたときは、どんな気持ちでしたか?
髙松:顧問の安田(功)先生から言われたのですが、詳しいことがよくわからなくて、「あ、そうなんや」という感じでした。でも、クラスのみんながとても喜んでくれて、それが嬉しかったですね。
――ダイヤモンドアスリートになったことで、何か変化したことはありますか?
髙松:「選ばれているから頑張らないと」と気負ってしまう面はあるのですが、ほかのダイヤモンドアスリートの方々の活躍が、すごく刺激になっていますね。それが一番大きいかもしれません。
――高校1年の冬には、安藤財団が行うグローバルチャレンジの支援を受け、単身でアルバカーキ(アメリカ)へ行き、約1カ月間、現地で生活しながらトレーニングすることも体験しました。
髙松:コーチが指導している高校の選手たちと一緒に練習したり、ホームステイ先のホストファミリーが経営するスポーツクラブでトレーニングしたり、現地の学校に通ったりしました。自分のこれからに役立つことを、たくさん経験することができたなと感謝しています。今でもコーチは、ずっと応援してくれていて、私が活躍したときは、それをほかの人たちにも紹介してくださるんです。そういう関係が続いていることは、とても自分の励みになっています。
父をコーチに、姉と一緒にトレーニング
――髙松さんは、日本で生まれたのですか?
髙松:ケニア生まれです。日本には1歳になってから来ました。
――ケニアに帰ったことは?
髙松:まだ1回もないんです。だから、去年、世界クロカンでウガンダに行けたときは、すごく嬉しかったです。ウガンダはケニアの隣ですごく近い国なので、そこでケニアの選手と走れたことも、叔父が応援に駆けつけてくれたことも本当に嬉しかったですね。
――ご家族の話を聞かせてください。小学生ころの話を伺った感じだと、小さいときから生活のなかに「走る」や「スポーツ」が当たり前にある環境だったのかなと思いましたが…。
髙松:そうでした。姉も、水泳や新体操もやっていましたし、走るだけでなくスポーツに関して、家族みんなが「頑張ろう」という感じでしたね。
――小さいころは「ついていけないからダメ」と言われた練習も、その後、お父さまに指導してもらえるようになったのですね?
髙松:はい(笑)。練習は、中学3年までは朝練だけ学校でやっていましたが、高校のときは、朝も夜も、父と姉と一緒にやっていました。
――高校の陸上部の練習とは別で?
髙松:はい。遠征とか合宿のときだけ一緒に練習するという形でやらせてもらっていました。
――練習は、ご自宅の周辺で? どんな場所を利用するのですか?
髙松:河川敷にグラウンドがあるのでそこで走ったり、あとは公園を利用したり。いろいろな所を練習場所にしていました。そういう意味で、とてもいい練習環境でしたね。
――お父さまがコーチだと、大変なときもあるのでは?
髙松:いいえ、自分にとっては、すごくよかったです。一緒に過ごせる時間も長いし、例えば「今日はここが痛かった」というようなことも、家族だからすんなり言えます。いろいろなことを相談しながらやってくることができました。
――お母さまは、どうですか?
髙松:母は応援専門です。ほかの選手の記録とか結果とかを調べて教えてくれたり、いろいろな刺激をくれています。
2018年の目標は、アジアジュニアとU20世界選手権
大学では、しっかり勉強もしたい
――この春からは大学生。名城大で競技を続けます。住まいも大阪から名古屋へ。大きく環境が変わることになりますね。
髙松:はい。家を出て、寮で生活します。練習のやり方も、父の練習とは変わってきますし、自分できちんと考えてやっていかなければならないことが増えてくると思うので、早く新しい環境に対応していきたいです。
――名城大にしたのは?
髙松:大学に入るからには勉強もちゃんとしたいと思っていて、自分のやりたい勉強ができて、陸上も継続できるということで決めました。
――学部は?
髙松:外国語学部です。将来、英語を使った仕事をしたいと思っているので。
――大学での目標は?
髙松:1つ1つの試合でちゃんと結果を出すことを目指しています。今年は、アジアジュニアとU20世界選手権があるので、これらの大会で頑張りたいです。また、米田(勝朗)監督からは、大学2年生のときにあるユニバーシアードを狙えると言われているので、そこも目標になってきます。そうやって、1つ1つクリアしていって、いろいろな世界大会に日本代表で出られるようになっていきたいです。
――「ここを改善していきたい」というようなところはあるのですか?
髙松:強い選手の走りを見ると、すごく体幹がしっかりしていて、フォームがきれいなので、自分もまず体幹から鍛えて、もっときれいな走りができるようになれたらな、と。
――バネがあって、伸びやかな、いい走りだと思うのですが?
髙松:全然です。手の振りが悪いし、バネというのも勢いがあるときはいいけれど、疲れてくるとピョンピョン跳んでいるだけになって、後半足が回らなくなってしまいますから…。これからはレースの距離が5000mになってくるので、最後まで力強い走りができるようにしなければなりません。
――これから戦いの場はシニアに移ってきますものね。力強さを増した走りが見られることを楽しみにしています。
髙松:ありがとうございます。頑張ります。
>>ダイヤモンドアスリート特設ページはこちら
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