2019.11.22(金)その他

【Challenge to TOKYO 2020 日本陸連強化委員会~東京五輪ゴールド・プラン~】第10回 日本で開かれる世界大会の戦い方 東京・大阪の世界選手権を振り返って(2)

第10回 日本で開かれる世界大会の戦い方 東京・大阪の世界選手権を振り返って(1)』から


選手の気持ちが空回りした大阪大会


──一方、2007年の大阪世界選手権は、プレッシャーの真っただ中にいるような大会ではなかったですか。

髙平 2003年のパリ世界選手権で銅メダル(男子200m)を取った末續慎吾さん(ミズノ/現・EAGLERUN)の名を借りて、いわゆる「末續世代」と言われましたけど、私も含めて年齢的にそのあたりの世代が中心になるはずだったのに、軒並み力を出せずに敗退した。それを考えると、プレッシャーは相当あったんだと思います。大会を盛り上げようとして、逆に背負ってしまった気がします。

これは二次的な要因かもしれませんけど、選手村になったホテルがすごく閉鎖的で、隔離されている感じになってしまって、すごくつらかったのを鮮明に覚えています。息抜きがほとんどできませんでした。いつもの世界大会なら共有スペースがあって、そこにみんなが集まってミーティングをしたり談笑したりしていたのですが、それがなかったので、ホテルの廊下に座ってしゃべっていました。ああいう環境がいいのか、悪いのか、判断は分かれると思いますけど。

髙野 大阪大会は私が監督だったんですね。4ヵ月ぐらい前に強化委員長に指名されて、急きょ。東京大会がまずまず成功なら、それをうまく引き継げなかったということはありますよね。私は、東京の時は選手だったわけで、執行部のノウハウは持ち合わせていません。かたや事前のテレビのPRはすごくて、選手たちは背伸びした発言をするし、私も目標を聞かれて「金メダル1つ」と言えるような雰囲気ではなかった。5つとか言ったのかな。

山崎 あれから事前のメダル獲得目標は言わなくなりましたよね。

髙野 結果的には「惨敗」と言われて……。

──東京大会の盛り上がりを直接知らない世代の選手たちが、なぜ大阪大会であれだけ「盛り上げよう」という気運になったのでしょうか。

髙平 選手の中で大きかったのは「陸上競技でスタンドを一杯にしよう」ということ。それが合言葉のようにありましたね。その先、どれだけ陸上ファンを増やせるかという意識が強かったんでしょう。当時から「アスリート委員会」という話も出てました。結果的にそういう発想がすべてプレッシャーに変換されてしまった部分はあると思います。

山崎 私は大阪世界選手権にハードルのコーチで行ったのですが、教訓として「大会を盛り上げよう」とか「スタンドを満員にしよう」とか、選手側が言ってはダメ。それは違う人たちが考えて、マネジメントすべきで、選手にそういう雑念があってはいけないと常々思っています。選手は勝つこと、きちんとパフォーマンスを出すことが仕事なので、そう考えた時点で負けだと思いますね。来年はオリンピックなので世界選手権と違いますけど、選手には競技に集中してほしいと思います。

ホテルの問題は、時代が変わっているので過去のノウハウがそのまま生きるかというのは結構難しくて、選手に合わせて考えることが必要かなと思っています。






髙野 2007年の大阪で期待したメンバーあたりから、いわゆるプロ的な意識を持ち始めたのかな。それまでは陸連に「選んでいただく」とかアマチュア的な意識が強かったんだけど、あのあたりの世代からプロ意識が芽生えた。だから、自分たちから発信しようとかがんばった。でも、そのプロ意識がまだ未成熟だった、ということではないでしょうか。あそこから始まったんだと思います。ちょっとほろ苦い思い出ではあるけれど、私はすべて失敗だったとは思っていません。

髙平 お2人の時代は、基本的にガバナンス(管理)の効かせ方がわかりやすかった。所属先とか陸連とか。でも、今はそれだけでなく、マネジメント会社に委託している選手も多いですし、誰が何の役割を分担するのか。そのうえで選手団に入ったら、JOCの管轄ですよね。すべての面が表に出るというリスク管理だけでなく、「すべて表に出て盛り上げるために使われるよ」という前提でやらないといけない時代になってることは間違いない。

SNSがまだほとんど普及していなかった私たちの時でさえ、あれだけ「選手のため」と思って囲ってくれたけど、来年は誰が、いつ、どこで、何をやっているか、すぐにネットにアップされるような時代です。だったら、それを逆手にとって、「陸連はこんなことをやってますよ」と出していく側にならないと、コントロールが効かなくなるのではないでしょうか。

──海老原さんは日本選手権で敗れて残念ながら大阪の世界選手権に出られなかったわけですけど、外から大会をどう見てましたか。

海老原 2007年は大学4年で、「大阪(世界選手権)に出られれば就職できる。出られなかったら厳しい」という、いわば〝就職活動〟だったんです。出られなくてもスズキに採っていただいたんですけど。周りを考えるより、本当に自分のための大会でした。

大阪には行く気がなかったんですけど、「やっぱり、やり投の予選ぐらい見るか」と思って、当日の朝に東京から出掛けていきました。やっぱり出ている人を見たら、うらやましかったですよね。ただ、あの大会はメディアの取り上げ方がすごく大きくて、知っている選手が話しているのを聞いた時に「自分の言葉で話してるのかな」と疑問に思うこともありました。日本選手は連鎖的に「脚がつった」とか、言っていましたよね。あんなことは普通なら絶対にないことだと思うので、やはり日本で開かれた大会だからかな、と。テレビ画面で「すみません」と謝っているのを見て、「何が起こっているんだろう」というのが正直な気持ちでした。




 

「もっと自分のことに集中しろ」と言いたい


──地元開催だとメリット、デメリットの両方があると思いますが、今のところデメリットの話が多いですね。

髙野 大阪大会当時の責任者としては、自分自身の経験のなさと言うか、きちんと頭の中で準備ができないうちに大会が始まってしまって、バタバタと大会が進んでいった、という感じですね。いろんな人たちが「こう大会を進めよう」と考えていたはずですけど、それが一本化されていなかった。そこに新人強化委員長が入って、目標は同じなんですけど、「こうやって」というところがチグハグでしたね。「日本でやるから」ということで気持ちの焦りはあるし、「東京(世界選手権)の感動をもう一度」という思いばかりがふくらむ。ちょっと冷静さを欠いた面は否めません。唯一、そこで自分が選手たちに言うべきだったことは、「もっと自分のことに集中しろ」と。「サービス精神は出さなくていいから、とにかく死に物狂いで試合のことだけ考えてやりなさい」と、当時言えたら良かったですね。今考えると、そういう反省があります。時間を戻せるなら、そこのところはきちんとやり直したいです。

ただ、先ほど言ったように、すべて成功と言うわけにはいかないけど、すべてが失敗でもないと思っているので、来年の東京五輪では生かしたいですよね。自分の立場が違うので、願望ですけど。

髙平 すべてが失敗ではないということは、私たちもすごく肌で感じることはありましたよ。男子短距離は富士北麓で事前合宿をやるようになって、メディア対応の日を設けたんですね。「この日はメディアの人たちが来るから、しっかりバトン練習をしましょう」とか。練習にすごくメリハリがついたイメージがあります。最後に髙野さんがメディアの前でやろうとしていることをしっかり話してくださって、メディア対応についてはすごく進んだと思います。

山崎 取材に関しては今、陸連の広報が一生懸命やってくれていて、その進化が継続されています。大阪世界選手権の時は、周りの期待値がメチャクチャ上がってしまったんですよね。普通に分析すると確実に入賞レベルにいる選手はそう多くなかったのに、「みんな入賞できる」というぐらいのレベルに上がっていた。その教訓としては、こちらからきちんと数字を出して、正しい情報発信ですよね。最近は報道する人たちも陸上競技の記録のレベルをしっかり把握してくれているので、むやみな過大評価はなくなってきていますけど。

髙野 選手の層もさまざまなんですね。学生で大学のコーチと一緒に東京五輪を目指す選手もいれば、企業の中の選手としてやる人もいる。さらには、ほぼプロでやろうとしている選手もいます。これまで陸連はそれをすべて同じように支えてきたんです、ほぼ平等に。しかし、今はもう戦略上マネジメント会社にお願いしないといけなくなる選手が出て来ているし、すごく複雑になっています。時代そのものが不安定で、予測不能になっています。

そういう中で情報をしっかり理解して、うまく選手をその舞台に立たせるために、どうやって戦略を練っていくのか。メディアにどう露出させて、陸連とどう付き合うか。そうやって先を読みながら、トータル的に考えていかないといけません。一つは個々の組織がそうやってやるということと、日本独特の陸連という組織がそこをサポートしていく態勢ですね。以前は「選ぶ」「選ばれる」という上下関係の色が強かったのですが、今は運命共同体として「目標はただ1つ」という横の関係が理想になります。

難しいとは思いますけど、そういうつながりができれば、東京・大阪の世界選手権とは明らかに異なった形態に進んでいくと思います。日本陸連が軸となって動いていくことは変わりませんけどね。

──髙野さんが今現役だったら、東京五輪までどう戦っていきたいですか。

髙野 私は大学の教員なので、やれることは限られています。だけど、日本でオリンピックが開かれるとなったら、「そこで人生が終わってもいい」ぐらいに思って、競技優先の道を模索していたかもしれませんね。当時は、まず定年まで働ける職場があって、そのうえで競技ができるというのが自分の将来的なビジョンだったんです。今のように「やれるところまでチャレンジする」という風潮だったら、31歳で引退しないで「次のオリンピックにも出たい」という気持ちになったかもしれません。大学で午後4時半まで授業をやって、その後に練習していたのですから。たぶん、本気でメダルを狙う覚悟がなかったです。真剣にメダルを狙うのであれば、その時間をトレーニングや身体のケアに充てています。


第10回 日本で開かれる世界大会の戦い方 東京・大阪の世界選手権を振り返って(3)』に続く…

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