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あらゆる方々が陸上を通して人生を豊かにしていくことを目指す「RIKUJO JAPAN」プロジェクト」。昨秋、日本で初めて、耳が聞こえない・聞こえにくいデフアスリートの国際総合競技大会、「東京2025デフリンピック」が開催された。音声が届きにくいデフアスリートが競技しやすいように、さまざまな創意工夫が見られたなか、陸上競技でも一般に「スタートランプ」と呼ばれる機器が活躍。平等な競走を実現し、選手たちの好走を後押しした。この「スタートランプ」の開発・普及に尽力したろう学校教員、竹見昌久さんの熱意と、それに応えた選手たちの健闘ぶりをレポートする。
提供:日本デフ陸上競技協会
「東京2025デフリンピック」は昨年11月15日から26日までの12日間、東京都を中心に福島県、静岡県の1都2県で開かれた。日本をはじめ、世界79の国・地域から約2,800人の選手が集い、21競技で熱戦を展開。彼らの躍動は注目の的となり、当初の見込み10万人を大きく上回る約28万人の観客を動員した。大声援も後押しに、日本選手団は過去最多の268選手が史上最多のメダル51個を獲得。うち陸上競技には50選手が出場し、金5個を含む11個のメダルを積み重ねた。
選手たちのパフォーマンスを支えた「スタートランプ」とは、トラック種目のスタート用の機器で、スターターと連動してLEDランプの色が赤(オンユアマーク)→黄(セット)→緑(号砲)と変化することでスタートのタイミングを合図する。正式名称は「光刺激スタート発信装置」という。
提供:日本デフ陸上競技協会
デフリンピックなど聴覚障がい者を対象とした競技会では補聴器等を外さねばならないルールがあり、選手には音や声の情報はほとんど届かない。スタートのピストル音もその一つだ。たとえ、補聴器をつけていたとしても、聞こえてくる多種多様の音声の中からピストル音を聞き分けることは人間の耳とは違い、かなり難しいそうだ。そのため、デフアスリートはスタート時に顔を上げ、隣の選手やスターターの動きを見てスタートのタイミングを図った。正しいフォームでのスタートもできず、出遅れることが当たり前だった。
だから、ピストル音を光に変換し視覚化した「スタートランプ」の導入によってデフアスリートたちの競技環境は向上し、平等なレースが実現した。「落ち着いてスタートできるようになった」「タイムがよくなった」などは選手たちからの感謝の声だ。東京デフリンピックで男子400mの金などメダル3個を獲得した山田真樹選手(ぴあ)は「スタートランプ」を、「希望の光」と表現する。
「競技場に設置されたスタートランプを見て最初は、『何だろう』と疑問に思う人も多いかもしれません。でも、これはろう者(聴覚障がい者)のための機器であり、障がいがあっても陸上に取り組む仲間がいるのだと気づくきっかけになると思います。形として残っていく効果が大きいのです」。外見からは分かりにくい、ろう者の存在を見える化する機器としても期待する。
提供:日本デフ陸上競技協会
その「光」をもたらしたのは、山田選手の高校時代の恩師でもある、竹見昌久さんだ。約23年のろう学校教員歴があり、陸上競技部顧問としても活動しており、2011年頃からメーカーとともに日本製スタートランプの開発・普及に取り組んだ。完成後は精力的に全国各地、さらには海外にまで出かけて、その普及に努めてきた。
竹見さんを「スタートランプ」開発へと向かわせたのは、教え子が泣きながらもらした嘆きの声だった。15年ほど前、高体連(全国高等学校体育連盟)の主催するインターハイ予選大会に3年生の女子選手が出場した。ろう者の大会では優勝経験もある選手だったが、号砲が聴き取れずに出遅れ、3年間の努力が泡と消えた。「聞こえなければ、どんなに努力しても勝てっこない」
思えば、それまで竹見さんは生徒たちに、「聞こえる努力をしなさい」「補聴器はちゃんと着けたのか」「聞こえなかったら、隣を見なさい」などと指導していた。「できないことを無理にやりなさいという、非常に酷な言葉がけだった」と気づかされた。
女子生徒の涙の訴えを受け、竹見さんは「スタートランプ」開発を決意。国士舘大学時代の恩師、青山利春氏に相談すると、スポーツ機器メーカーのニシ・スポーツを紹介され、共同開発が始まった。
実は、「スタートランプ」は2000年代に入って海外では開発が始まっていた。竹見さんも2009年の台湾デフリンピックで目にしたが、かなり大型だった。他にも数モデルが製造されていたが、小さすぎて視認性が低いモデルなどそれぞれ課題もあり、日本での普及は進んでいなかった。
陸上のスタート発信装置開発の実績があるニシ・スポーツとともに、海外モデルも参考にしながら、約8年をかけて日本製のスタートランプが誕生した。竹見さんは、「写真判定装置にもつながりルール上も正規に使えるモデルは、たぶん世界初」と言い、「持ち運びにも優れ、誰もが扱いやすいシンプルな作りで、これが最終形ではないでしょうか」と胸を張る。
提供:日本デフ陸上競技協会
だが、完成当初はその必要性が理解してもらえず、苦労もあった。例えば、「ピストルの音が聞こえなくて困っている選手のために」と説明しても、「私が知るろう者はピストル音でスタートしていた。だから、ランプなど必要ない」と聞く耳を持たない審判員もいたという。
「聴覚障がいに対する正しい理解が進んでいなかったことが要因でしょう。でも、スタートランプを紹介することで、『言われてみれば、聴覚障がい者にはスタートの音は聞こえないですね』と気づいてくれる人たちもいました。スタートランプがスポーツの共生社会を進める1つの力になっていると感じています」
地道な活動により、2017年には日本陸上競技連盟の競技規則でも認可された。公認機器にも指定されたおかげで採用する競技会も徐々に増えた。デフアスリートが健聴者の大会に出場しても、より平等な環境でレースに臨めるようになったのだ。
だが、光の合図でスタートするには慣れも必要だ。「スタートランプ」は9レーン分1セットで約360万円と高価なため、「もっと気軽に練習でも使えたら」と思った竹見さんは伝手のあった大手通信キャリアのKDDIに相談した。趣旨を理解した同社によって、2015年にはスマートフォン上で動く「聴覚障がい者向け陸上スターターアプリケーション」が完成した。ダウンロードすれば、親機となるスマートフォンからBluetooth経由で子機9台までつなぐことができ、「スタートランプ」と同様に機能する。アプリは無料で提供され、日本だけでなく、ブルガリアやモーリシャス諸島など海外でも反響があった。残念ながら維持費の関係で、約3年前に提供が終了したが、竹見さんは、「スタートランプをより身近にしたという意味で、このアプリの功績はとても大きかった」と感謝する。
「スタートランプ」によって選手のスタート技術も上がり、タイムも向上。100m男子の日本デフ記録(10秒59)をもつ佐々木琢磨選手(仙台大TC)は2022年のデフリンピック(ブラジル)で同種目を初制覇した。翌2023年には鹿児島県で開催された国民体育大会にも青森県代表で初出場を果たす。国体のトラック種目にデフアスリートが出場するのは史上初。スタートランプも初めて導入され、障がいのある選手を受け入れた「ユニバーサルな国体」の一歩も刻まれた。
提供:日本デフ陸上競技協会
竹見さんは佐々木選手から、「最近、幅跳びや高跳びのデフ選手が減った」と聞き、改めてやりがいを感じたという。以前はスタートのハンデがある短距離を敬遠し、フィールド種目を選ぶ選手が多かったが、スタートランプが広まったことで短距離に挑戦する選手が増えたのだという。「選手の選択肢が広がったことは嬉しいです」
東京デフリンピック直前の2024年にはニシ・スポーツの尽力もあってスポーツ庁の予算がつき、全国35の自治体に「スタートランプ」が整備された。今後も広がっていく予定になっている。
竹見さんは日本製のスタートランプを海外にも積極的に紹介した。デフアスリートが抱えるスタートの課題は海外でも同様だったからだ。2016年には世界デフ陸上競技選手権(ブルガリア)で使われ、2019年には台湾とケニアが購入。2022年にはデフリンピック(ブラジル)で初めて、公式機器として採用された。
提供:日本デフ陸上競技協会
2025年に竹見さんは事務局次長を務める日本デフ陸上競技協会に「スタートランプで世界をつなぐプロジェクト」を立ち上げ、同年2月にはドミニカ共和国に「スタートランプ」を寄贈した。現地のろう学校で使い方教室も開いたところ、とても喜ばれ、生徒たちから日本語で、「ニッポン、アリガトウ」と感謝されたそうだ。
デフアスリート向けの機器開発もさらに進み、中・長距離レース用の「スタートランプ(スタンドシグナル)」も完成させた。仕組みは短距離用と同じだが、こだわったのは、「360度どこからも見える仕様」だ。中・長距離レースではよく、観客席にいるコーチがラップタイムを測ったりするが、号砲と同時にストップウオッチを押せないと意味がない。「スタンディングランプ」のおかげで、「正しく押せるようになった」と喜ばれている。
提供:日本デフ陸上競技協会
最近はニシ・スポーツと共同で、「見えるホイッスル」も開発し、都内のろう学校に設置されたという。ホイッスルを吹くタイミングに合わせてボタンを押すと発光する機器で、市販のライトと組み合わせて体育館の壁やバレーボールネットなどに取り付ければ、ホイッスルの音が聞こえない選手たちにも合図が届くというわけだ。
「スタートランプ」の開発・普及活動によってデフ陸上の発展に貢献した長年の努力や実績が評価され、竹見さんは2025年度の「第16回日本スポーツ学会大賞」を受賞した。同賞は日本スポーツ界に貢献した個人や団体に贈られており、デフスポーツ界からは初受賞となった。
提供:日本スポーツ学会
2026年1月24日に都内で行われた授賞式で竹見さんは、「昨年は王貞治さんが、過去には大谷翔平さんや国枝慎吾さんなどスポーツ界で名だたる方たちが受賞している大賞を、ありがとうございます。私1人の力でなく、私がやりたいことに賛同してくれた方たちや、特に選手たちが東京2025デフリンピックで日本中を感動させるようなパフォーマンスをしてくれて、スタートランプが日本中に、世界中に広がるきっかけになりました。それがあったからこその受賞だと思います。みんなで分かち合いたい」と感謝と喜びの思いを表した。
さらに、これから目指すべきゴールについても語った。「デフアスリートが陸上の大会にエントリーする際、『スタートランプ希望』として申し込めば、レース当日、当たり前にスタートランプが設置されている状況が理想です。聴覚障がいのある選手たちがスタートでドキドキしたり、ハンディキャップを抱えることのないように、スタートランプが日本中に、世界中に広まるゴールを目指したいです」
自ら灯した「光」の輪を、もっともっと広げようと竹見さんの活動は続く。障がいの有無に関わらず、誰もが陸上競技を、スポーツを楽しめる環境を目指してーー。
文:星野恭子