陸上の可能性と未来を考える『RIKUJO JAPAN』プロジェクトでは、誰もがもっと気軽に陸上に親しめる環境をつくり、広げることも目指すビジョンの一つです。今回はそのような環境を体現されている活動の一つ、「EDORIKUパラ陸上教室」を訪問しました。東京・江戸川区が東京マラソン財団のスポーツレガシー事業の寄付金を活用し、2016年度から始め、今年で9年目となる陸上教室です。
スピアーズえどりくフィールド(江戸川区陸上競技場)を会場に、パラリンピアンの講師の指導を受けながら、陸上競技用車いす“レーサー”で走ることができます。開設当初は少なかった参加者の数も、評判が口コミなどで広まり、最近は増えていっているそうです。実際、グラウンドには笑顔があふれ、陸上を、走ることを、存分に楽しんでいる環境が、たしかにありました。
まずは、「EDORIKUパラ陸上教室」を立ち上げた経緯や思いなどについて、運営者の江戸川区文化共育部スポーツ振興課笈川晋一課長にお話を伺いました。
「江戸川区役所に『障がい者スポーツ係』という部署が2016年度から設立されたことを機に、車いす利用者が思いきり体を動かせる機会になるようにと、前身となる「EDORIKU車いす陸上教室」を立ち上げました。講師にパラリンピアンを迎え、参加者のレベルに応じた指導を行うことで、初心者には基礎体力の向上や競技への導入を図り、すでに競技に取り組んでいる人にはより高度な技術を教え、レベルアップを図れる場の提供を目的に始めました」
日常的に車いすを利用する人にとって、気軽に体を動かしたり、走ったりする機会や場所はなかなかありません。走るための用具、“レーサー”も高価であり、また、身体に合わせてカスタマイズが必要なため、とくに成長期の子どもが自前で用意するにはハードルが高めです。この教室には貸出用レーサーが多数、用意され、気軽にレーサーを体験できる貴重な機会です。他に、日常用の車いすよりも軽く、操作しやすいバスケットボール用車いすも用意されていました。参加者それぞれの状態に合わせて選べます。
笈川課長はさらに教室の特徴について、「この教室では貸し切りの競技場を全力で走ることができます。日常生活で体験できない爽快感を感じてもらうことで、より多くの障がい児・者がスポーツへの苦手意識を払拭し、体を動かすことの楽しさを知っていただければ嬉しいです。また、『走る』という動作は陸上競技のみならず、他の多くのスポーツにも通じる動作です。この教室を通じて、陸上競技以外のスポーツにも興味を持ち、継続してスポーツに取り組むきっかけとなればと思っています」と説明。
これまでの教室には未就学児童から40代まで幅広い人が参加していて、楽しく運動できる場として連続参加する人や競技としてパラ陸上に取り組む人から、ボッチャや車いすバスケットボールへと活動を広げている人たちもいるそうです。
教室には参加者の安心・安全を守る工夫も見られました。まず、東京都理学療法士協会の皆さんが協力し、体や動きに関する専門知識を活用して教室をサポートしているのです。同協会の鈴木真治さんは、参加への思いをこう話します。
「体を動かすことは誰にとっても大切なことで、パラ陸上教室は、障がいのある人が運動を始めるきっかけとなり、楽しくつづけられる機会の一つです。そういう貴重な場に協会として協力し、安心安全な教室の運営をお手伝いできればという思いで参加しています。私たち理学療法士が関わることで、障がいがあって難しいと思われる動きでも、『こうしたら、できますよ』など個別のアドバイスができますし、状況によっては『少し休憩しましょう』といった提案もできます。教室で行うトレーニングの中には家庭でできるものもあるので参考にしていただき、運動を楽しく継続していただけたらと願っています」
また、えどがわパラスポアンバサダーの皆さんも力強いサポーターです。同アンバサダーは江戸川区独自のボランティアスタッフで、同区で毎年実施している「初級パラスポーツ指導員養成講習会」で指導員資格を取得した人をアンバサダーとして認定。2024年9月時点で203名が登録され、同区で開催するパラスポーツ関連事業で活躍しているそうです。
柳澤由利さんはアンバサダー制度の開設初期から活動している一人。「スポーツが大好きで学生時代はソフトテニス、今はゴルフなどを楽しんでいます。ボランティア活動もライフワークの一つで、この教室はみんなが笑顔になってくれるし、その笑顔が楽しみで参加しています。私自身が一番、楽しんでいるかもしれません。最初は『障がいのある人たちをどうサポートすればよいかしら』と構える気持ちがありましたが、すぐに、障がいがあろうとなかろうと、みんな同じ。自然体で接すればいいんだと思えました。アンバサダーのお仲間は年齢もさまざまですが、協力しあい楽しく活動できています。理学療法士さんがご一緒なのも安心ですね。体が続く限り、参加したいと思っています」
訪問した9月23日(月・祝)は今年度の最終日(5回目)で、初参加者も含め14名が参加していました。秋晴れの青空が広がり、スポーツ日和でした。
教室はまず、屋内で講師の花岡伸和さん(関東パラ陸上競技連盟)による講義から始まりました。花岡さんは2004年アテネ大会と2012年ロンドン大会の車いすマラソン日本代表のパラリンピアンです。講師は2022年度から担当されています。
講義の話題は、「筋肉の話」や「熱中症対策」など毎回異なり、この日は花岡さんがテレビ解説の仕事などで参加した「パリパラリンピック報告会」でした。大勢の観客で盛り上がる会場の様子やパリでの宿泊、食事風景など、写真を見ながら他では聞けない裏話がユーモアたっぷりに披露され、参加者は皆、興味津々の様子。花岡さんは解説を務めた車いすマラソンのレースにも触れ、「銅メダルを獲得した鈴木朋樹選手は小学校5年生から知っています。昔から真面目にコツコツ努力する選手です。メダル獲得まで20年かかりましたが、同じように皆さんにも可能性がありますからね!ぜひ、心に留めておいてください」との言葉で、講義は終了。
つづいては競技場での実技です。慣れた参加者でしょうか。待ってましたとばかりに、グラウンドに飛び出していく人も。準備運動では理学療法士さんの丁寧な指導やアンバサダーのサポートを受けながら、肩など上半身を中心に念入りにストレッチが行われました。
体がほぐれたら、メディシンボール投げと3分間の10mシャトルランの2種目で体力測定です。サポーターの皆さんの、「いけるいける」「お~、やったね!」「ゆっくりでもいいから、3分間、がんばろう」など、やる気を引き出すような声掛けも力に、それぞれの目標に挑む参加者。記録は用紙に記入され、それぞれに渡されます。初参加者にとっては自分を知り、経験者にとっては自身の成長が感じられる機会です。
アンバサダーから自身の記録を聞いて、「やった」と笑顔を見せたのは中学2年生の片岡絆平さん(14歳)です。足立区在住で、教室には2022年度から参加していて、今年はこの日が3回目。「少しずつ記録が上がっていくことが嬉しいです」
見守っていたお母さんは、「この教室は予定に合わせて単発で参加できるし、体を動かして汗をかくことも息子にはよい経験。また、家では親があれこれ手を出す必要がありますが、ここでは専門家の皆さんにお任せでき、『親子が離れる時間』にもなります」と、この教室の良さを話していました。
体力測定の後はいよいよレーサーの練習です。まずは、理学療法士やアンバサダーのサポートを受けながら、レーサーへと乗り換えます。レーサーは脚の代わりであり、シューズのようにフィット感が重要です。レンタル用レーサーなので、少しでもそれぞれの体に合うようにシートの高さやベルトの位置は適切かどうか、足がパーツに当たっていないかといったポイントを理学療法士がチェックします。また、できるだけ快適に負担なく操作できるよう、必要に応じてウレタンなどを使って念入りに調整します。
この日のメインは、「100m走のタイム計測」でした。よいタイムが出るように、本番前にはスタートダッシュの練習も行われました。本格的なスタートピストルが使われ、国際大会さながらに、「オンユアマーク(位置について)」「セット(用意)」、パン!という号砲ともに、参加者は30mのダッシュを繰り返していました。
体も温まり、準備ができたところで、いよいよ測定です。順番にスタートラインに並ぶ参加者の表情は真剣そのもの。グランドには何度も号砲が響き、参加者は力強く、それぞれの「自分越え」に挑んでいました。
「思いきりスピードが出せて、楽しい! 将来はパラリンピック選手になりたい!」と目を輝かせたのは茨城県土浦市から参加の小学3年生、冨嶋美月さん(9歳)です。小学生でもレーサーに乗れる機会を探していたところ、偶然、東京マラソン財団のSNSでお母さんが見つけて去年、初めて参加したそうです。すぐに夢中になってしまい、今年は皆勤賞。回を重ねるごとにレーサーに慣れ、体の使い方もうまくなり、コーナーもスムーズに曲がれるようになってスピードも上がっています。
お母さんは「競技場で走れる機会は少ないので貴重です。成長が見え、娘の可能性も感じられて、嬉しいです」と目を細めます。“先輩”の見よう見まねができたり、気軽に質問できる環境も大きく、また年齢の近い車いすのお友だちができたことも美月さんには大きな刺激になっているようだとお母さんは話します。「競い合えるのも楽しいみたいです。『あの子ができるから、自分も頑張ろう』とか、自立意識や向上心も育まれているようです」。教室に参加してからの美月さんの心の成長についても話してくれました。
こうして、全員の計測が終わると、今度はレーサーから日常用の車いすに乗り換え、整理体操。そして、閉講式が行われ、花岡さんによる、「今年度は今日で最後です。教室で習ったトレーニングを家でもやってくださいね。やれば、必ず体力もつくし、成長します。来年の春、また元気に会いましょう!」という言葉で、終了となりました。
江戸川区在住で保育園に通う塩田千紘くん(6歳)はお友だちからの紹介で、この日が教室初参加。バスケットボール用車いすで元気に走り回り、「ピストルの音が少し怖かったけど、楽しかった」と話してくれました。お母さんによれば、普段は車いすで動き回ることはほとんどなく、「楽しそうでした。車いすをいっぱいこいで、『肩が疲れた』みたいですが、普段使わない部分だからでしょう。専門家の手厚いサポートのなか、ストレッチや体の使い方なども教えていただけて勉強になりました。未就学児でも受け入れていただけるのはとても貴重です。来年もお天気と相談しながら、参加したいと思います」と話していました。
講師の花岡さんは今年度の教室を振り返り、「この教室は子ども限定ではありませんが、やはり子どもたちの参加者が多いです。子どもはちょっとしたアドバイスや工夫によって変化や成長がすぐに見られます。講師として、トップアスリートのコーチングとはまた違った楽しさややりがいがあります。スポーツは、とくに子どもにとって人生を左右するような体験になると思います。参加者からリーダーやメンターのような存在が生まれることを期待していますし、そのために競技力だけでなく個々の特性を活かせるような教室にしたいと思っています。今年度は初参加者がたくさん来てくれました。来年度も参加してもらえたら嬉しいです」と、より多くの参加を呼びかけていました。
なお、2022年度には前身の「車いす陸上教室」から「パラ陸上教室」へと名称を変更し、車いす利用者だけでなく、立位での自走が可能な多様な障がいのある人へと対象範囲を広げ、名称も「パラ陸上教室」に変更されています。笈川課長は、「現在は身体障がい児・者のみの教室となっていますが、いずれは障がいの種類に関係なく、陸上競技を楽しめる教室にしていくことが目標」と話しています。
さまざまな人の熱い想いや創意工夫で長く開催され、参加者の笑顔を育んできた陸上教室。今後のますますの発展とともに、こうした活動が各地にも広がっていきますようにと、強く願った1日でした。
文・写真:星野恭子