2021.06.07(月)大会

【日本選手権混成】長野陸上競技協会インタビューVol.1 ~10年間の歴史と心に残る出来事~



第105回日本選手権混成競技は6月12・13日、夏に開催される東京オリンピックの代表選考会を兼ねて、長野県の長野市営陸上競技場において開催されます。混成競技の日本選手権が長野で開催されるようになったのは、ロンドンオリンピックの最終選考会となった2012年の第96回大会からで、今年でちょうど10回目。この大会の運営については、随所に手厚い配慮や工夫が凝らされていることで、出場する競技者からはもちろんのこと、競技運営に携わる関係者からも非常に高く評価されています。その背景には、大会の運営母体となった長野陸上競技協会関係者のさまざまな試行錯誤や尽力がありました。

10回目の開催に際して、ここでは長年、「支える人」として日本選手権混成競技の開催に携わってきた長野陸上競技協会の方々にインタビュー。これまでの取り組みをご紹介します。

プロフィール



◎司会進行:石井朗生(日本陸連事務局)
◎構成・文:児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真:フォート・キシモト/長野陸上競技協会

日本選手権混成 ~長野での10年を振り返る~



石井:今年で日本選手権混成競技の長野市での開催が10回目を迎えることとなりました。来年からは秋田市での開催が決まっていて、ここでひと区切りということにはなりますが、まさにロールモデルとなるような競技運営を、この10年の間に構築してきてくださった長野陸上競技協会(長野陸協)の 皆さんの経験を、全国で競技会運営にかかわっておられる皆さまに届けることができれば…と、こういう場を設定しました。時節柄、オンラインでの実施ですが、長野開催を企画の段階から牽引してこられた内山了治さん(長野陸協代表理事・理事長)、葛城光一さん(同業務執行理事・副理事長/競技運営担当)、玉城良二さん(日本体育大学陸上競技部男子駅伝監督、前長野陸協副理事長)に参加をいただきました。司会進行については、ご縁があって、現職に就く以前から長野開催のお手伝いをしてきた私・石井(日本陸連事務局経営企画部長・管理部長)が務めます。よろしくお願いいたします。

内山・葛城・玉城:
よろしくお願いします。

石井:
まず、内山先生に、日本選手権混成のこの10年を、ざっと振り返っていただきましょう。

内山:
はい。「長野でやろう」という話が最初に持ち上がったのは、2008~2009年ごろのことです。当時、長野陸協の理事長だった細田完二先生が日本陸連の理事(東海地区)を担当していたことや、混成競技の日本選手権優勝者が長野県から3名(小林敬和=第63・64回大会、屋ヶ田直美=第68回大会、松田克彦=第72・73回大会)出ていること、さらには、松本市で実施した2001年の日本ジュニア選手権以降、長野県で全国大会を開催していなかったことなどが背景にあって、そういう話になったんです。松本平広域公園と長野市営のどちらにするか検討し、風の条件、アクセスや宿泊の問題、そして当時、私が理事長をしていた長野市陸協の熱意もあって、長野市営陸上競技場で開催することとなりました。そのころは長野陸協の事務局は上田市にあったので、当初はその長野陸協理事会構成員と、実施に向けて立ち上がった実行委員会(長野市陸協を中心としたメンバー)とがパラレルで動く構造となりましたが、地理的な対応力の問題もあり、実務自体は我々実行委員会が主導し、さらに若手が中心となって進めていきました。長野陸協としては、当初3年ということでお引き受けしたのですが、お陰様で多くの方々からのご指導ご支援によりあっという間に10回目を迎えることになりました。
この大会をお引き受けした当初のねらいは、全国的な手法を学び競技運営力を向上させる、指導者養成と競技者の育成(日本選手権に出場できる優秀な競技者を育成している指導者との交流やクリニックの開催)、長野市営陸上競技場の施設設備の充実でした。これまでの9年間を振り返ると、ほぼ3年単位で大きな変革があったように感じています。
1回目となった2012年(第96回大会)は、初日に中村明彦選手(当時、中京大。現スズキ)と右代啓祐選手(当時、スズキ浜松AC。現国士舘クラブ)が4000点を超えて、日本新記録が期待されるという素晴らしい滑り出しをみせたのですが、2日目午後に雷雨で2時間近く競技を中断し、その影響で競技時間が大幅に遅れるこれまでに経験のないアクシデントが生じました。詳細は改めて触れますが、最終種目の1500mで照明が足りないという状況になり、皆で懸命に対処しました。
2回目の第97回大会では、向かい風の場合でも対応できるようにしようと、大会直前にバックスタンド側に直走路を用意することになり、その工事を急遽長野市さんのご理解で行っていただきました。大会に間に合わせることができたのは日程を含めて厳しい条件下で対応してくださった長谷川体育施設さんのご尽力あってのことで、本当にありがたかったですね。ただ、実施にあたっては、逆走路の前日テストでは問題なかったピストル信号通信システムが、当日、ホームとバックストレート側を同時に接続すると信号が繋がらずその対応でエラーが出て競技開始が遅れたことで、冷や汗をかきました。この年から、大会運営全般を内山、競技運営を玉城が担当するように分担しました。
混乱と試行錯誤の繰り返しという状況から、少しずつ競技運営がオンタイムで進むようになってきたのは3回目(2014年)くらいでしょうか。このときは右代選手が8308点の日本新記録を樹立、中村選手も8035点をマークと、2選手が8000点台に乗ったことで、大会としても非常に盛り上がりました。また、秋には代表に選出された仁川アジア大会で、右代選手が金メダル、中村選手も銅メダルを獲得する好成績を挙げたこともあり、混成競技への世間の関心や認知もそのあたりから急激に高まったように思います。



運営面で岐点となったのは、2015年です。私が長野陸協の理事長を務めることになり、体制が新たになったことで、それまでパラレルだった長野陸協と実行委員会の関係を一体化できたのです。そこからは若い方々が中心となっての運営体制が、一気に進むことになりました。翌2016年の第100回大会では、記念として歴代優勝者の方々を“レジェンド”としてお招きしたほか、十種競技で中村選手が初優勝してリオ五輪内定一番乗りになるなど、大いに盛り上がりました。競技運営自体も、この頃からオンタイムでの進行が当たり前になり軌道に乗ってきたように思います。



第101回大会で実施した長野県出身の塚原直貴さん(2008年北京オリンピック男子4×100mR銀メダリスト)の引退レースも印象深いですね。このときはスタンドが満杯になりました。逆に、ピンチだったのは2018年の第102回大会。大会日程が、北信越高校総体と重なったために、競技役員の確保ができず、日本陸連や全国の陸協から協力を得て、役員を派遣していただいたなかでの開催でした。ただ、そうしたなかでも運営体制は年々安定していくことができました。新型コロナウイルス問題の影響を受けた昨年(第104回)も、期日や会場の決定こそ二転三転したものの、延期されて9月の実施となった大会運営自体はスムーズに行うことができました。今年は、長野市での最後の開催となるので、今までの集大成として、記録と運営面の両方でうまくできればいいなと考えています。

心に残る出来事 ~苦労した点、配慮した点~



石井:大会に関して最も強いインパクトを残しているのは、やはり1回目の1500mの光景ですね。中断で競技が遅れたために日没を迎えてしまい、事前に用意していた可動式の照明器だけでは足りないという事態に陥ったなかでの出来事でした。あの対応は玉城先生が?

玉城:
「誰が」ということでなく、役員みんなの「なんとか競技会を無事に終えたい」「選手たちが安全に走れるようにしたい」という思いがそうさせたということです。車を入れてヘッドライトを照明代わりにしたのは私ですが、当時、勤務先に照明がなく、普段の練習時に車で走路を照らすことを、ごく自然にやっていたので、その発想で車3台を入れただけのことだったんです。同時に、第1曲走路付近は、100円ショップで購入してきたペンライトが縁石に沿って並びました。私はあれを見た瞬間、「あ、負けたな」と思いました(笑)。明るさということではヘッドライトでもよかったけれど、走る選手のためには、あれが400mあったほうがよかったなと、今は思いますね。
まあ、そうして、なんとか無事に競技を終えることができたわけですが、当然批判の声もありました。しかし、このときの模様が翌週末のニュース番組で紹介され、“ご意見番”の張本勲さんに「あっぱれ」をいただいたことは、我々としては救われた思いがありました。設備が整っていれば起きなかったことなのですが、長野陸協という脆弱な組織のなかで、「なんとかしよう」というみんなの強い思いから生まれた知恵の一つでしたから。懐かしいですね。

石井:
ペンライトは、どなたのアイデアだったのですか?

内山:
あれは、急遽思いついて、「とにかくあるだけすべて買ってきてくれ」と集めたものだったんです。たまたま置いてあって30本買い集めることができたから配置することもできましたが…。ただ、玉城先生も言われたように、これは競技場全体に照明があれば、そもそも起きなかったことなんですね。照明とスクリーン(電光掲示板)さえ備わっていれば、もっと楽に運営できたのにという思いはあります。特に、照明の設置については、日本陸連からも専務理事や局長に来ていただいて、一緒に何度も長野市に陳情に行ったものです。写真判定のライト設置や用器具は充実しましたが、照明やスクリーンは残念ながらつきませんでしたね。そのあたりは、サッカーと兼用のスタジアムなら話は違ったのでしょうが、陸上だけだと変わらない。きっと、そこはどの県でも同じような状況なのではないかと思います。

石井:
日本陸連の主催大会は、競歩は同じ場所で長年行っているケースはあるのですが、トラック&フィールド種目、それもアウトドアでの主催大会を、これだけ継続してやっていただいているのは、近年では長野だけなんです。いろいろなご苦労や配慮された点もあったと思いますが…。

内山:
端的にいうなら「人とお金と組織」です。中体連や高体連の大会と違って、この大会は運営母体がないので、そこが大変でした。高校の場合は長野県高校総体が終わって北信越大会に向かう時期ですし、中学も地区大会と県中学大会の間の時期なので、どちらの先生方にとっても、大会直前の最後の詰めに大切な時期なんですよね。(運営の)担い手となる方がいなかったことが一番のネックでしたね。また、予算的にも、非常に厳しかったので、経費面の苦労も常にありました。さらに先ほども述べたように、当初は長野陸協と実行委員会とがパラレルの関係で進んだことで、気を遣わなければならないことも多々ありました。

葛城:
私は、この10年で立場が3回変わっているんです。最初は情報システム委員長という立場で、エントリーのとりまとめと番組編成を担当し、深夜まで内山先生とやり取りをしていました。総務委員長の時期は、プログラムづくりが大変でしたね。4月以降、そして日本混成が終わってからも競技会が毎週続く状況で、ときには3つの大会のプログラムを並行してつくったこともあります。競技運営の担当となってからは、一緒に動いていた若手のメンバーが素晴らしい仕事をしてくれるようになって、自分がトラックやフィールドに出ていかなくても徐々に現場が回るようになりました。毎年やっているうちに、各々が自分の立場でバランスよく機能するようになってきたなという実感がありますね。

玉城:
内山先生の振り返りにもあったように、長野県は、全国規模の大会を長く開いていなくて、それもあって競技会運営も陸協としての組織自体も変化がなかったんですね。私は、普及強化委員長の立場でそれを停滞だと思っていて、そのことが競技力の向上にも影響していると感じていました。だから、話が持ち上がったとき、「ぜひやってほしい」と積極的に声を上げた一人です。当時は高校(長野東高校)の教員で、陸協では競技力向上のほうの責任者をやっていたので、自分が運営側になるとは思っていなかったのですが、長野市で内山先生の近くにいたということもあり、今までやったことのなかった審判編成などの役回りを経験することになりました。2年目から一気に若返りを図ったことで、経験豊富な方々に、後方に引いていただくことをお願いしなければならない状況も生じて、非常に苦しい思いもしたこともあります。でも、今、長野陸協自体の各役職が若返ったり、しっかり動くようになってきたりしているのは、これがあったからのことなんですね。当初、考えていた陸協自体の活性化や競技力向上という点でも、この大会を長野でやらせていただいたことは非常に意義があったと思います。

石井:
混成競技という種目の特性もあって、大会運営そのものでも、経験したことのないような対応が必要になったこともあるかと思います。

玉城:
日本陸連や選手からの注文も非常に多くて、最初のころは正直、「なんでここまで応えなくてはならないんだ」というものもありました。しかし、回を追うごとに、現場の審判員の方々が混成競技への理解を深め「選手に、記録を出させてやりたい。いい条件のなかで競技させてあげたい」という思いを理解して、全員で共有するようになっていきましたね。

石井:
具体的に、どういったことで普段と違う対応を?

玉城:
現場の選手の意見や指導者の声を聞いて、競技の時間や環境を変える…ピット変更やバック側走路での実施などで…ことです。競技時間について、いい記録が出て競技が長引けば、次の種目までの時間も含めて再調整が必要になってくることは折り込み済みなのですが、その他の点については、普段は「決まったなかでやる」という前提で運営しているわけで、これに応じようとすると、当然、通常以上の負担や調整が必要になり、競技の遅れにも繋がるんですね。もともと、ぎりぎりの人員で動いていただけに、そうした面について、要望を出す側と現場の審判との間に入って、どこまで対応していくかが最初は大変でしたね。今も言ったように審判員の方々が、「それが混成競技特有の進行や運営の仕方なのだ」と理解してくださって、柔軟に対応してくれるようになったので、記録を出すという点では、それがよかったのかなと思います。一方で、世界大会などではピット変更等ができず、そのなかで自分の力をちんと出すことが求められるわけで、そうした側面を考えると、我々の対応が、選手にとって本当にためになることだったのかなと考えてしまう側面はあります。

石井:
葛城さんの場合はいかがでしょう? エントリー等でも要望に対応されていたはずですが…。

葛城:
混成競技の試合数が少ないこともあって、地区インカレの結果も反映できるよう、ぎりぎりの期限に設定するなどの対応をしましたね。ただ、そこでの締切りの1週間の差というのは大きな違いで、運営する身としては、とてもきついんです。非常に厳しい日程となったことも多々ありましたね。

(2021年5月17日収録)


>>【日本選手権混成】長野陸上競技協会インタビュー Vol.2 に続く


■第105回日本陸上競技選手権大会・混成競技 特設サイト
https://www.jaaf.or.jp/jch/105/combined-events/

■第105回日本陸上競技選手権大会・混成競技 大会ページ
https://www.jaaf.or.jp/competition/detail/1555/

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