いよいよオリンピックイヤーとなる2020年が幕を開けました。1964年の第18回大会以来2回目の東京開催となる第32回オリンピック競技大会の陸上競技は、大会後半となる7月31日から8月9日まで、10日間の日程で行われます。
東京オリンピックの日本代表選手争いは、陸上競技でもすでに始まっていて、2019年の段階で、男女マラソンおよび男子競歩のロード種目において、すでに7選手が内定しています。これらのロード種目では、今後、マラソンでは男女ともに最後の1枠が決まるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)ファイナルチャレンジ各大会が、また、ドーハ世界選手権で2つの金メダルを獲得している競歩においても日本選手権を含む複数の選考レースが、春までに次々と行われます。それぞれの大会で、残り少なくなった枠を巡って熾烈な戦いが繰り広げられることは必至。見逃すことのできないハイレベルなレース、スリリングな勝負を期待することができそうです。
オリンピックイヤーを飾るトップアスリートインタビューの第1回は、陸上競技における、2020年東京オリンピック日本代表選手内定第1号である男子マラソンの中村匠吾選手(富士通)の登場です。中村選手は、初マラソンとして挑戦した2018年3月のびわ湖毎日マラソンにおいてMGC出場権を獲得。同年秋のベルリンマラソンで大幅に自己記録を更新すると、その成功例を生かした準備によって、さらにスケールアップ。昨年9月15日に行われたMGCで、並みいる強豪を退け、見事な優勝を果たしています。マラソンを志してからのここまでの道のりと、オリンピック最終日の8月9日に実施されるレースに向けての展望を話していただきました。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真提供:フォート・キシモト
MGCは「現状では100点に近いレース」
理想のレース展開ができた
―――改めまして、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)の優勝、そして、東京オリンピック代表内定、おめでとうございます。MGCから3カ月。ご自身の周りはどうでしょう? 何か変わりましたか?
中村:MGCで優勝してから、街中などを走っていても、応援してくれる人、声をかけてくれる人が増えました。反響がすごく大きかったのだなと感じています。
―――前とは違いまですか?
中村:そうですね。特に、テレビに出たり雑誌で取り上げてもらったりしたあとだと、声をかけてもらう機会がすごく増えたので、変わってきたなという感じがします。
―――MGCを振り返って、ご自分であの走りは、点数をつけたら何点だったのでしょうか?
中村:本当に、現状では100点に近いレースができたのかなと感じています。
―――力を出しきることができた?
中村:そうですね。あらゆる準備はしてきたのですが、私自身が望んでいたような(気象)コンディションとなったことや、最後、40kmあたりからの勝負となったことも含めて、理想のレース展開ができたのかなと感じています。
―――大会前の記者会見の際、「勝負所はどこか」という質問に対して、中村選手は「40kmから」と答えていらっしゃいました。まさにその通りになった感があります。大会前は「もう優勝しかない」と考えていたのですか? それとも「(内定が決まる)2位までに入ろう」という意識だったのですか?
中村:2位までが内定するということだったので、走る前は、確実にまず2番までに入るということを考えていました。しかし、実際に、その勝負所の40kmを迎えたあたりからは、もう勝つことしか意識の中にはなかったかなと思います。
―――レースプラン自体は、イメージ通りだったのですか?
中村:そうですね。あらゆるレースプランは考えていたのですが、思っていたよりもチームメイトの鈴木選手(健吾、富士通)など、早い段階で仕掛ける選手も何人かいて、途中で揺さぶりがあったのですが、想定していた選手たちが後半も残っていて、当初考えていた通り、40kmあたりから仕掛けることができました。
―――最初にスパートしたあとで、給水を取っているのを拝見して、「うわあ、冷静だなあ」と思いました。それも想定していた行動だったのですか?
中村:39km過ぎの最初のスパートは、考えていたよりも少し早かったんです。とっさのスパートというか、感覚のなかで出たスパートでした。それで後ろの選手が少し離れてくれたので、自分のペースでまずは押していきました。まだ心のなかに余裕を持ちながら、給水もしっかり取って、最後の本当の勝負所の場所を迎えようという感じで走っていました。
―――とっさのスパートだったのですね。
中村:はい。GMOの橋本崚選手が少しペースを上げたので、それにかぶせるような形でスパートしたら、うまく抜け出せるのかなと思って走りました。
―――そのまま“抜け出しきれる”とは考えなかったのですか?
中村:先頭集団に残っていた大迫さん(傑、Nike)や服部勇馬選手(トヨタ自動車)は非常に力のある選手ですから、スパートした時点で2人の動きを確認したいなというのと、(勝負は)やはり最後までもつれるだろうなという思いがありました。上り坂がまだ残っていたので、そのあたりまでは少し余裕を持ちながら走ろうと考えていましたね。
―――ご自身で、「勝った」と思ったのは、どこでしたか?
中村:残り1kmを切って、最後の坂を上り終えたあたりで「勝てたかな」と感じました。
―――そこからフィニッシュラインまでは、どんな心境だった?
中村:後ろ(との距離)も離れてはいたのですが、(相手は)最後の最後まで油断できない選手だったので、気持ちを切らさずに全力を出しきって、まずはゴールしようという気持ちでしたね。
「マラソンってすごい」と思ったのは中学時代
アテネオリンピックの野口みずき選手を見て
―――中村選手は、小学校のころから陸上競技をやっていらしたのですね。
中村:はい。小学校5年生のときに、地元のクラブチームがあったので、そこに所属して始めました。
―――なぜ、陸上競技だったのですか?
中村:小学校では冬に年に1回、マラソン大会があって、小学校1年生のころから上位のほうで走れていたということと、もともと走るのが好きだったというのがありました。その当時、同じクラブに友達が入っていて、その友達に誘われて…という感じです。
―――そのままずっと陸上競技を? ほかのスポーツは?
中村:そのときからずっと陸上です。まあ、小学校のときは、長距離だけじゃなくて、走幅跳や100mでも記録会には出ていたのですが、中学から本格的に長距離を始めました。
―――内部(うつべ)中学校のときですね。長距離が一番得意だった?
中村:自分の持ち味を生かすとなると、やはり長距離なのかなと感じていました。
―――中学時代は、目立つ実績は残していなかった。
中村:そうですね。中学3年の最後に、全国都道府県対抗男子駅伝の代表に選んでいただいたくらいです。決して全国で活躍できる選手というわけではなかったです。
―――高校は、現在は統合されて伊賀白鳳高校となっていますが、上野工業高校に進まれました。進学の経緯は?
中村:当時、三重県のなかでは全国高校駅伝の常連校だったんです。町野英二先生というすごい指導者がいらっしゃって、強い先輩方も集まっていましたし、どうせやるなら強い高校に進学して、そこで力をつけたいという気持ちで決めました。
―――そして、高校でどんどん力をつけて、全国レベルで活躍されるようになりました。ご自身のなかで、マラソンは、どの時期からやりたいと思っていたのですか?
中村:中学校のときにアテネオリンピックがあって、地元の野口みずきさんが金メダルを取って、そのあたりから「マラソンって、すごいんだな」と感じていました。ただ、まだフルマラソン…42.195kmという距離を走ることは全然考えられなくて…。本格的にやってみようと意識し始めたのは、大学3年生とか、4年生あたりですね。
―――高校ではトラック種目でも好成績を残していますが、当時から、もっと長い距離、あるいはロードのほうが自分には合っているという思いはあったのですか?
中村:高校ではトラック(種目)でもインターハイや国体で上位に入賞(3年時にインターハイ5000m3位、国体少年A5000m4位)することはできていたのですが、高校駅伝の1区…といっても長くて10kmでしたが…のほうが持ち味を生かせる走りができたり、当時、町野先生から「ロード向きで、将来はマラソンでもやっていけるんじゃないか」というふうに言われたりはしていました。その段階では「どうだろう」という気持ちもありましたが、「長いほうが向いている」という言葉をいただいたことで、将来的にはマラソンをやってみたいなと思うようになりました。
初マラソンでMGC出場権を獲得
―――駒澤大学へ進んでからは、現在も指導を受けている大八木弘明監督のもと、学生駅伝で非常に活躍されました。また、ユニバーシアードではハーフマラソンで銅メダルを獲得していますし、世界ハーフマラソンには大学3年のときと、富士通に進んで社会人1年目のときと、2大会連続で日本代表として出場を果たしています。マラソンへの初挑戦は、社会人になって少し経ってからとなりましたね。着実に距離を伸ばしていった印象はありますが、実は、もっと早い段階でマラソンをやりたかったという話も耳にしたことがあるのですが…。
中村:そうですね。目標としてした大学の先輩である藤田敦史さん(2時間06分51秒のマラソン元日本記録保持者、現駒澤大コーチ)が、大学4年生のときに初マラソンをやられて、世界陸上に出られていた(※1999年のびわ湖毎日マラソンに出場して、2時間10分07秒の学生最高記録を樹立。同年夏に行われたセビリア世界選手権マラソン代表に選出され、6位入賞を果たした)ことから、自分も大学を卒業する年にマラソンを走ってみたいという気持ちはあったのですが、まあ、なかなか体力面で追いつかなかったということもあって…。トラック種目やハーフマラソンを中心にやって、少しずつ距離を伸ばしていったという感じです。
―――東京オリンピックの開催が決まった2013年というのは、中村選手が…?
中村:大学3年生のときです。
―――そうすると、その段階で「東京オリンピックは、マラソンで行こう」という気持ちだった?
中村:そうですね。マラソンでオリンピックに行きたいという気持ちは、そのときにもうあって、(東京開催が決まったことで)よりマラソンをやるという決心が固まってきたという時期でした。
―――そういう思いのなか2015年に社会人になり、実際に走ることができたのは2018年3月のびわ湖毎日マラソン。少し時間がかかりましたね。その間、焦りなどはなかったのでしょうか?
中村:やはり、もどかしい気持ちはすごくありました。入社してからはリオデジャネイロオリンピックもあって、たぶんいろいろな方がマラソンで出場することを期待してくださっていたと思いますから。ただ、(マラソンの)スタートラインに立つまでの練習で苦戦したり、故障したりすることもあったので、監督やコーチと一緒に話し合って、まずはトラックやハーフマラソンをしっかり走って、徐々に体力をつけてマラソンに移行していこうということになったんです。2020年オリンピックの東京開催が決まっていたので、そこから逆算してどのあたりでやるべきかを考えて、2018年のびわ湖を初マラソンに選びました。
―――初マラソンとなった2018年のびわ湖毎日マラソンは、その時期から考えると暑さを感じるコンディションのなかで行われました。中村選手は、中盤を過ぎたところでいったん上位争いから後退しましたが、最後で盛り返して日本人トップの2時間10分51秒をマークして7位でフィニッシュ。進出条件を満たしてMGC出場権を獲得しました。初マラソンは、どういう心境で臨んでいたのですか?
中村:あのときのびわ湖に向けては、前年の夏あたりから少しずつ距離を伸ばしていくなど、ゆっくり時間をかけて準備していったのですが、初マラソンということもあって、練習も、どういったものが自分に合っているのかなかなか見えてこないなか、試行錯誤して、ようやくスタートラインに立てたという感じでした。うまくいけばMGCの権利をぎりぎり獲得できるかもしれないし、悪ければ後半失速してしまうかもしれないと、本当にどうなるか全くわからない状況でスタートラインに立ったので、やはり不安はありましたね。
―――とはいえ、初マラソンにもかかわらず、最後の2.195kmをしっかり走りきり、その走りは、レース後、高く評価されました。自分で行けるという感じはあったのですか?
中村:MGCのレースはすでに決まっていましたし、そのためにも、あのびわ湖で出場権を獲得しておきたいという気持ちがありましたから…。先頭集団からは30km手前くらいで離れてしまったのですが、そのあたりからは(びわ湖毎日マラソンにおけるMGC進出条件となる)2時間11分00秒を切ることを意識しながら走りましたね。
MGCのスタートラインに
不安なく、自信を持って立つことができた背景
―――その後、2レース目として臨んだ2018年のベルリンマラソンでは、2時間08分16秒と大幅に自己記録を更新して4位の成績を収めました。ほとんど単独走となったなかで自己新をマークしたことがとても印象深かったのですが、ご自分ではどういうペースで、どういうレースをしようとしたのですか?
中村:本来は第3グループのためのペースメーカーが、2時間6分台のペースで引っ張ってくれる予定だったのですが、スタートしてみたらエリウド・キプチョゲ選手(ケニア、2時間01分39秒の世界新記録で優勝)のところについていってしまって(笑)、完全に最初から単独走という形になってしまいました。なので、できる限り、(1kmのペースを)3分近いところでしっかり押していこうという意識を持ちました。ちょうど中継車がついていて、そこに福嶋(正)監督が乗っていたんです。的確に指示を出してくれましたし、ゴールタイムは予想できていたので、それを1つの目安にして走りました。
―――1人で走ってそこまで行けたという意味では、逆に、その経験は、自信になったのでは?
中村:そうですね。そのベルリンで、ようやく2時間8分台で走れて、「ああ、マラソン練習は、こういうことをしていけばいいのだ」と思うことができました。少しずつではあるけれどベースができてきたのかなということも実感できたので、その1年後に行われるMGCに向けての自信になりました。
―――MGCに向けては、ベルリンマラソンに向けてのトレーニングをベースにして準備していったそうですね。一時期、痛みが出たりした時期もあったと聞きましたが、そのあたりも含めて、最終的にピークをしっかり合わせていけたことに対して、ご自身はどう振り返りますか?
中村:前年(2018年)のベルリンマラソンのときに合宿や同じ練習のパターンというのを試すことができていましたし、また、私自身に高地トレーニングが非常に合うことがデータとしてわかっていたので、MGCの前も同じ流れで進めました。故障とかもありましたが、それも最小限の日数で抑えることができましたし、8月にはアメリカのユタでしっかりと高地トレーニングができました。そこで前年よりも質の高い練習が少しずつ上積みできていたのに加えて、状態が非常に上向きになっていることも感じていたので、当日は、不安もなく、自信を持って、スタートラインに立てていたのかなと思います。
―――「やることはやってきたぞ。よし、やってやるぞ」という感じ?
中村:そうですね、まずはMGCで勝つことを目標に、何年もかけてやってきていたので、やれることをやってスタートラインに立てたという充実感があって、そこから「やるぞ、勝つぞ」と思っていましたね。
―――お話を伺っていると、粘り強さ、意志の強さというものをとても感じるのですが、中村選手は、ご自身の強みはどういうところだと思っていますか?
中村:粘り強さという部分もそうですし、(意思の強さという点では)練習を含めて、一度やろうと決めたら必ずどんな状況でも成し遂げるということを貫き通して、これまでずっと積み重ねてきたつもりではいるので、そういったところがスタートラインについたときの自信につながっていると思います。いいレースができるときというのは、その両面がしっかり回っていると思います。
―――また、身体的な側面でいうと、先ほど仰っていた高地トレーニングが合っているということのほかに、暑さへの耐性も大きな強みなのかな、と。
中村:暑さに強いというのはあります。逆に、寒くなった東京マラソン(2019年)では失敗しているレースもあるのですが(笑)。8月、9月というのは、毎年見ていても体調が非常に上がってくる時期でもあるので、MGCに向けてもピークを合わせやすいというのはありました。また、MGCでは、レース後半で30℃近くまで気温が上がったということも、プラスには働いていたのかなと思います。
―――それは、8月に開催される東京オリンピックにおいても、とても大きな強みになりますね。
後半勝負に持っていければ勝負はできる
しっかり準備して、すべてを出しきりたい
―――あっという間に、ずっと目標にしてきた東京オリンピックの年を迎えることになりますが、ここからオリンピック本番までは、どういう計画で動いていく予定ですか?
中村:そうですね。ここ2年は、ベルリンマラソン(2018年)、MGC(2019年)と、同じようなパターンを組んでレースをやってきました。来季は、それが1カ月ほど早い8月9日にレース本番を迎えることになるので、基本的に同じようなパターンでの合宿を、1カ月くらい前倒しで組んで、準備していくことができたらいいなと思っています。
―――せっかくオリンピック本番とほぼ同じになるはずだったコースでMGCを走ったのに、その後、急に開催地が札幌に変更されました。札幌への移転という話が決まったときは、どんな心境でしたか?
中村:いろいろな方が東京でやるということを前提に準備してきてくださっていたので、複雑な心境というのはありました。でも、選手としては、札幌に決まったのであれば、そこに向けて、いろいろな対策を早く練って、準備していくことが一番だと思うので、どんな状況でもしっかりと力を出しきれるよう、今は準備を進めているところです。
―――オリンピックまでに、「これはやっておきたい」という点は何かありますか?
中村:当日の気象条件もそうですが、どういう選手が出てくるかもわからない部分はあるのですが、まずはベースとなる練習をしっかり積むことですね。その上で、(本番では)どこかのポイントでペースアップが間違いなくあると思うので、そこにしっかり対応できるスピード面をもう少し、プラスで積み上げていけたらいいなと思っています。
―――柔軟に対応できるようにしていきたい?
中村:そうですね。MGCのような後半勝負に持っていくことができたら、十分に勝負はできると思うので、イメージとしては、それまでの…例えば30kmだったりの…ところで起きる揺さぶりに、いかに余裕をもって対応できるか、です。リオのレースを見ていても、5km(のペース)で言うと14分20秒くらいに上がっています。そのスピードの持久力を1つの目標として、ベースを上げていけたらいいなと思っています。
―――ずばり目標を。
中村:やはりまずは良い状態でスタートラインに立つということが一番です。そのあとは上の順位を取れるように、これからの期間、しっかり準備して、当日はそれをすべて出しきれるようにしたいです。
―――自信を持ってレースに挑む姿が見られることを楽しみに、8月9日を待ちたいと思います。本日はありがとうございました。
(2019年12月16日収録)