「ダイヤモンドアスリート」制度は、2020年東京オリンピックと、その後の国際競技会における活躍が期待できる次世代の競技者を強化育成することを目指すとともに、その活躍の過程で豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本、さらには国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、2014-2015年シーズンに創設されました。昨年11月からは、継続競技者8名のほか、新たに3名の競技者を加えた全11名が認定され、第5期がスタートしています。
新たに加わった第5期(2018-2019)認定アスリートのインタビュー。第2回は、男子走幅跳・200mの海鋒泰輝選手(西武台千葉高校3年・千葉)です。
◎取材・構成・写真:児玉育美/JAAFメディアチーム
最初は、高校でスポーツをするつもりはなかった
―――海鋒くんは、中学までサッカーをやってきたと伺いました。サッカーを始めたきっかけは?海鋒:通っていた幼稚園に、サッカーのクラブがあったんです。運動は好きだったし、やると楽しいし、友達も一緒にやるというので始めることになりました。
―――小学生や中学生のときにも、100mの試合に出ていますが。
海鋒:機会があったから出てみたという感じです。メインはサッカーでしたし、自分の力がどのくらいかを試してみようというくらいの気持ちでした。
―――そこから、どういう経緯で、高校で陸上に取り組むことになったのですか?
海鋒:最初は、高校では何もやるつもりはなかったんです。サッカーも中学でひと区切りつけて、勉強に集中しようかなと思っていました。すると父から「何もやらないのなら、陸上をやってみないか」と勧められ、やるのなら父が信頼している先生を探してほしいと頼んだら、西武台千葉高校の浅野真吾先生がいいと勧められました。学校に練習に行ってみたら雰囲気もよくて、じゃあ3年間はしっかりやろうと、入ることを決意しました。
―――高校ではスポーツをやるつもりがなかったというのは、すごく意外です。スポーツは小さいことから得意だったのでは?
海鋒:はい。動くのは好きでしたね。
―――それなのに高校ではスポーツをやらず、勉強で頑張ろうと思った?
海鋒:高校でスポーツをやっても成功するとは限らないと思ったので、それなら勉強して確実にいい成績をとったほうがいいかなという考えでした。自分自身、3年間でここまで成長するとは思っていなかったので。まあ、陸上をやっていてよかったかな、と今は思いますが(笑)
“父も母も通ってきた道”という思いが、やる気の源に
―――お父さまの海鋒佳輝さんは、走高跳で日本のトップ選手として活躍していらした方ですし、お母さまの泰子さんも走幅跳の選手。6mジャンパーで、国体でも優勝しています。ご両親が陸上をやっていたことは知っていましたか? まあ、お父さまは長く競技を続けていたので…。海鋒:はい。試合を見に行ったりしていました。なので、父のことは知っていました。母は走幅跳をやっていたことは知っていましたが、国体で優勝していることを知ったのは高校2年になってからです。
―――海鋒くんご自身は、なぜ走幅跳を?
海鋒:妹は走高跳をやっているのですが、自分は走高跳をやったときにセンスがないなと思って(笑)。でも、跳躍からは離れたくなくて取り組んでみた走幅跳がすごく楽しかったので、高校は走幅跳専門でいくことにしました。母は国体で優勝していますが、インターハイは勝っていません。自分は、父のように大会記録をマークすることはできなかったけれど、母がやっていた走幅跳でインターハイに勝てたことは、とてもよかったと思います。母は、いつでも、どんなときでも見に来てくれていたので、恩返しができたかなと。
―――お母さまの応援は、すごく力になっていたのですね。
海鋒:はい。うちの家族は「勝ってこい」とは絶対に言いません。「楽しんでこい」というスタンス。自分でもそれをモットーにしています。試合のときは、いつも招集に行く前に母と話すのですが、そのときも「楽しんでこい」といつも言ってくれました。母からは、ときどきアドバイスをもらうこともありますし、また、動画を撮影してくれて、家でそれをみんなで見て、「ここはよくないかも」というようなことを話し合うこともあります。父は、違う高校(八千代松陰高校)で指導しているので、詳しく教えてもらうことはありませんが、そのぶん、走力関係は西武台千葉でしっかりやってくることができました。
―――西武台千葉といえば、全国クラスの人も多くいますし、高校で本格的に陸上の練習を始めたときは、慣れるまで大変だったのでは?
海鋒:はい。仲間にもすごく恵まれたと思います。ただ、最初のころは、練習で何をやっているのかが、よくわからなくて大変でした。走ることをするだけだと思っていたので、筋トレとかも理解できなかったですし。また、強くなるのは簡単じゃないんだというようなことも実感しました。それでも「父と母も、この道を通ってきたんだな」と思うと、やる気が出てくるようなところがありましたね。
悔しさが残った高2シーズン
―――高校1年のときのベスト記録(6m92)は秋に出ています。ひと夏を越えて感覚がわかってきた感じだったのでしょうか?海鋒:最初のころは、本当に5mくらいしか跳べなくて…(笑)。
―――確かに、5m84という結果が残っています。
海鋒:3年生の女の先輩にも負けていたので、浅野先生に頼んで、まず走力を鍛えました。それから走幅跳の練習をして6m92まで行けたので、「冬期練習をしっかり積めば、強くなれるかな」と思ったのですが、そこで剥離骨折してしまって…。
―――それは冬になって?
海鋒:冬期練習に入ってすぐくらいにやってしまって、そこで練習はストップ。筋トレくらいしかできなくて、走ることはできませんでした。走れるようになったのは、年が明けてからで、できるだけ地面が柔らかいところで走って、少しずつ慣らしていくところから始めました。結局、1カ月半くらいしか練習ができなかったんです。
―――よく2年目のシーズンインに間に合いましたね。
海鋒:不安はありましたが、徐々に調子を上げていくことができたのでよかったのです。でも、インターハイは、父の実家がある山形県天童市での開催だったので思い入れがあったのに、ちょっと情けないところ見せてしまったなという部分もあって…。
―――走幅跳は予選で記録を残せていません。何があったのですか?
海鋒:棄権です。前日の4継(4×100mR)で左脚のつけ根の神経を痛めてしまったんです。どうしても1本くらいは跳びたいと思って臨んだのですが全然ダメで、棄権せざるを得ませんでした。
―――それは悔しかったでしょうね。
海鋒:はい。大事な試合の、このタイミングで、まさかこんな状態になるなんて…と思いましたね。
―――そのケガも回復して、秋シーズンを迎えたわけですね。千葉県高校新人大会で7m40(+0.5)を跳んで復調の兆しを見せました。
海鋒:はい。万全ではなかったけれど、自分のペースに持っていくことができました。そこから修正して、日本ユース(U18日本選手権)を狙おうと思ったのですが、踏切板が全然踏めなくて、助走も安定せずに終わってしまいました(7m21、+0.3)。
―――初の全国入賞となる5位でしたが、悔しさが残る結果だったのですね。
海鋒:まあ、でも、その負けが、やる気につながったので…。よかったのかもしれません。
「勝ちたい気持ちが生む怖さ」を知ったインターハイ
―――高校2年から3年にかけての冬というのは、しっかり練習できたのですか?海鋒:1回ケガをして1週間ほど練習できない時期はありましたが、そこからはもう全部参加できました。部の中でも一番熱心な同級生の瀬尾(英明、2018年国体少年A100m優勝)が練習でのパートナーだったのですが、「プラスアルファで、こういうことをやったほうがいいんじゃないの?」と、いろいろ教えてくれたことが刺激になりましたし、また、体重をキープするために家でも栄養面に気を配ってくれたので、ベスト体重のまま筋肉をつけていくことができました。3年目は非公認ながら最初から7m50を跳んで、すごくいい流れでシーズンに入りました。
―――それは練習で、ということ?
海鋒:非公認ですが、集まって試合形式で跳ぶことをやったんです。そこで、3回連続して7m50台を跳べました。冬期練習をしっかりやるのとそうでないのとではすごい差が違うんだなと感じました。
―――スピードもついていたようですね。
海鋒:春合宿で200mを走ったときに、加速で20秒台が出ていました。自分では100mでは加速しきれないという思いがあって、200mをやりたいと思っていたのですが、そういうのもあって支部予選は100m・走幅跳に加えて200mもやるようになり、より狙えるということで、県大会からは200mと走幅跳に絞りました。
―――そして、千葉県大会では21秒13(+1.3)の好記録をマークして、大きく注目を集めました。200mと走幅跳とは関連があるとも言われていますが、200mを走ったとき、好感触はあったのですか?
海鋒:自分は前半が強みで、でも、それまではカーブの走りが下手だったんです。そこを、「大きく(カーブを)回ると損するな」とか「身体をこっちに向けたらいいんじゃないか」と自分なりに考えました。工夫した結果がつながったのでよかったです。
―――そして、走幅跳でも、7m75(+1.8)を跳びました。このときはどうだったのですか?
海鋒:流れがすごくよかったですね。1本目で7m51(+3.5)を跳んで、2本目(7m50、+1.6)は足が落ちていなければ8m近く跳べていたような跳躍で。3・4本目で少し落ちてしまいましたが、そこで修正した結果が出て、5回目にマークしました。自分でも、そこまで跳べるとは思っていなくて、家でも「日本選手権の参加標準記録(7m75)近くが出たらいいな」なんて話をしていたことが本当になったので、いい経験が増えたなと思いました。ただ、感覚としてはあまり「跳んだ」という感じはなくて、アドバイスをいただいている森長先生(正樹、日本大)からも、しっくりはこなかったと言われました。
―――感触がよかったのは2回目のほうだった?
海鋒:はい。自分自身も2本目のほうがしっくりきていたので…。まあ、だいぶでき上がってきているのかなという感じでしたね。
―――そこで参加資格を得て、日本選手権にも出場しました。ベスト8には残ることができませんでしたが(12位)、その時点でのセカンドベスト(7m63、+0.9)をマークしています。これは、どう評価していますか?
海鋒:目標にしている橋岡さん(優輝、日本大)もいたので、自分もベスト8に残ることを目標にしていたのですが、周りが大人の選手ばかりというのもあって届きませんでしたね。でも、そこで得たものは大きかったです。
―――そうした迎えたインターハイは大激戦となりました。7m67で2位と同記録ながら、セカンド記録の差で優勝を果たしたわけですが、何が印象深く残っていますか?
海鋒:言葉が悪いけれど、“ちょっと気持ち悪い”という感じでした。まず、前日に行われた予選で、前の年よりも予選通過標準記録が下がっている(7m25→7m20)のに、最初の2本が全然跳べなくて(7m09、7m12)、「ああ、自分は全国(大会)に弱いのかな」という気持ちになりました。3回目は「ファウルでもいいから突っ込もう」と思って挑んで、そうしたら跳べて(7m42、-1.2)、ようやく通過することができたわけですが、そのとき「ああ、これが足りなかったんだな」と思いましたね。勝ちたいという気持ちが強かっただけに、怖くなっていたんです。
―――攻めていけなかったのですね。
海鋒:はい。そして、それが4継にも影響したことが後悔となっています。予選は、走幅跳予選のヒヤヒヤと緊張感が全くとれなくて、うまく走れませんでしたし、次の日の準決勝は、走幅跳で優勝できたので「いい流れで来ているから4継も残ろう」と思って残ることができたけど、変な緊張のまま跳んでいたことで足がおかしくなっちゃって、翌日の決勝ではいい走りができませんでした。結果は5位。ほかの3人は「最後まで戦えてよかったね」と言ってくれけれど、本当は、ずっと一緒にやってきた3人と一緒にメダルを手にしたかった。それができなかったことが、自分のなかでは一番の悔いとして残っています。
―――「勝ちたい」と強く思うなかでの勝負の難しさを味わったわけですね。秋は、国体でセカンドベストの7m71(+1.7)で優勝を果たしたものの、U18日本選手権は、7m11(-1.4)でベスト8に残れずに終わってしまいましたが…。
海鋒:ケガとかではないのですが、そこまでずっと週末に合宿と試合が続いていて、休む期間がなかったんです。疲労がたまっていて、全然跳べませんでした。両親は「こういう経験も大切」と言ってくれましたが、自分としても「初心に返って、気持ちを切り替えて頑張ろう」と思いました。
将来は、スポーツ関係の仕事に就きたい
―――卒業後の進路は?海鋒:日本大学へ進みます。
―――日大だとレベルが高いですね。対校戦で選手になっていくのも大変です。
海鋒:はい。でも、逆にちょっと楽しみでもあります。
―――どういうところをもっと強くしていきたいと思っていますか? 課題にしていることは?
海鋒:助走の安定感が一番の課題です。跳べるときは跳べるけれど、跳べないときは踏切板を踏むこともできないというように、波が激しいので。この冬が大切だと思うので、バネと走力をしっかり“貯金”して、大学では1年目から花を咲かせることができるように頑張っていきたいです。
―――自分の将来については、今、どんなイメージを描いていますか? 陸上をやっていなかったかもしれなかったことを考えると、こういう結果を出してダイヤモンドアスリートにも選ばれて…というのは、想像を超える展開だったのではないかと思うのですが。
海鋒:自分自身では、ダイヤモンドアスリートに選ばれるとは思っていませんでしたが、友達からは「(第4期で)橋岡さんが抜けるから、もしかしたら(選ばれる可能性が)あるんじゃないの?」とも言われていました。でも、橋岡さんの高校時代と、自分の高校時代とでは、大きな違いがあります。ベスト記録は一応、橋岡さんと同じ高校歴代8位の7m75ですが、橋岡さんは向かい風1.6mのなかで跳んでいて、自分は追い風1.8m。橋岡さんは高校3冠(インターハイ、国体、日本ジュニア選手権=現U20日本選手権)も達成しています。そういうところを考えると、自分が選ばれるとは思えなかったんです。逆に、選ばれたとわかったときは嬉しくて、その期待に応えられるように頑張らなきゃと思いました。大学から先のことは、やってみないとわからないけれど、まずは、大学4年間はしっかりやろうと決めています。また、記録が伸びても伸びなくてもスポーツから離れるつもりはないので、将来はスポーツ関係の仕事に就きたい。そのなかで、競技を続けているようであったらいいなと思っています。
―――この3年間で、「将来はスポーツの世界でやっていきたい」という方向へ、舵を切ったわけですね。では、大学では、そのために必要なことも、もっと勉強していくことになるのでしょうね。何を学びたいですか?
海鋒:まずは栄養のことを。これから外国遠征に行ったりすることが増えてきたら、気候や環境が違うなかでもベストの状態に持っていけるかということが試されるんじゃないかなと思っています。また、大学では、寮に入る予定でいます。今までは自分が何も知らなくても、母や祖母が気をつけてくれていましたが、これからは自分でしっかり管理できるようにしていかなければなりません。そういうこともあって、栄養のことをしっかり勉強できたらいいなと思います。
―――ダイヤモンドアスリートのプログラムには、実際に調理する研修もあります。やってみて戸惑いはなかったですか?
海鋒:もともと料理をつくるのは嫌いではないので、大丈夫でした。
―――橋岡選手や江島選手(雅紀、日本大)など、来年からは同じチームの先輩になる人たちと一緒に研修するのはどんな気持ちでしたか?
海鋒:今までいろいろな講義とか受けてきましたが、ここが一番緊張感あるな、と。逆に、こういう人たちと一緒にやれるのが嬉しかったです。ここまで来ることができたのは、いろいろな人のおかげなので、そのことに感謝して、恩を結果で返せるように頑張ろうと思います。
まずは、8mの跳躍を
―――来シーズンの目標は?海鋒:しっかりと、まずは8mを目指していきたいです。
―――8mは、感覚的に見えてきましたか?
海鋒:まだですね。
―――どこが足りないと思いますか?
海鋒:安定性もそうだし、筋肉とかの質など、全部を考えると…。
―――勝負強さは持っているように思います。自分のなかでは、そういうイメージはありますか?
海鋒:そこはサッカーで得たことが残っているのかな、と。サッカーのときは「(ボールを)取られたら、取り返す」という気持ちでやっていました。自分がボールを取られたら、それは自分の責任で、取り返すまで追わなくてはなりませんから。それが身についているのかもしれません。
―――逆に、ここは改善していきたいなということはありますか?
海鋒:ケガが多いので、それをなくしていきたいですね。
―――そのあたりは、身体が全体的に鍛えられていけば、だんだん少なくなっていくのかもしれませんね。来季、試合として目標になるのは?
海鋒:選ばれたら関東インカレとか、日本インカレとかでしょうか。
―――U20世界選手権が開催されない年なので、それが残念です。
海鋒:国際大会だとユニバーシアードですね。あと標準記録まで5cmなので。そこも目標にしてもいいのかなと思います。
―――大学生となった来シーズン、スピードあふれる助走から繰り出される大ジャンプが見られることを楽しみにしています。ありがとうございました。
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