2020年東京オリンピック、その後の国際競技会での活躍が期待できる次世代の競技者を強化育成する「ダイヤモンドアスリート」制度。単に、対象競技者の競技力向上だけを目指すのではなく、アスリートとして世界を舞台に活躍していくなかで豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本および国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、2014-2015年シーズンに創設されました。すでに3期が終了し、これまでに9名が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11名が認定され、第4期がスタートしています。
ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第1回は、走幅跳の橋岡優輝選手(日本大学)に話を伺いました。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/フォート・キシモト
中学時代は四種競技に取り組む
――陸上競技はいつから? 何かきっかけはあったのですか?
橋岡:始めたのは中学1年からです。部活に入らなければいけない中学で、両親が陸上をやっていたのは知っていたので、「自分もやってみようかな」と興味本位で始めました。
――それまでは、いろいろなスポーツをやっていたそうですね。
橋岡:サッカーとか野球とかを。ただ、「スポーツ」というよりは「遊び」感覚でしたね。
――1年生のときは、100mに取り組んでいた? その後、四種競技含め、いろいろな種目に取り組んでいますが、どういう経緯で?
橋岡:1年のときは100mだけやっていました。2年になったときに顧問の先生が替わり、そのころハードルをやってみたいと取り組み始めていたのですが、先生から「ハードルの練習として四種に出ろ」と言われたことがきっかけで四種競技もやるようになりました。言われたときは「それって、逆じゃないのかな?」とも思いましたが、今思うと、当時、僕があまり部活に出ていたわけではなかったので、四種をやることでバランスよく体力を高めようとしたのかもしれません。その年の秋の新人大会で3位になって、そこからは四種競技主体でやるようになっていきました。
――そして、中3の春先に標準記録を突破して、全日中へ出場されたわけですね。初めての全国大会はどうでしたか?
橋岡:楽しかったです。今もそうですが、自分は昔からあまり緊張しないタイプ。なので、全く緊張することもなく、ただ、楽しみました。
――3位という結果でしたが、優勝を狙うとかいう感じではなかったのですか?
橋岡:勝ちを意識するほど練習をしていなかったので(笑)。「楽しんでやっていたら、3番になっちゃった」という感覚のほうが強かったですね。
――陸上を続けていこうと思ったのは、そのあたりから?
橋岡:そうですね。全日中で入賞したのをきっかけに、「高校でもやっていきたいな」と思い、進学先を考えるようになりました。
――そして、八王子高校へ進学します。顧問の渡邉大輔先生は、走幅跳でオリンピックや世界選手権にも出場している名選手。橋岡くんにとっては叔父さまでもあります。
橋岡:はい。
――高校を選んだ経緯は?
橋岡:もともと走幅跳がやりたかったんです。跳躍種目が大好きで、跳ぶのが大好きという感じだったので。
――中学でやっていたのは、走幅跳でなく走高跳でしたよね?
橋岡:はい、中学では走高跳をやっていたのですが、母が走幅跳をやっていたこともあり、もともと興味があったんです。試合には出ていないけれど、練習では少しやったこともあります。それで高校では、本格的に取り組んでみたいなと。(叔母の夫である)渡邉先生との関係もあったので、じゃあ、八王子高校へ、という形になりました。
――高校1年生のときは、その走幅跳になじんでいくのに苦労したと聞きました。
橋岡:かなり苦労しました。
――どういったことで?
橋岡:先生に「こういう感覚で跳ぶんだよ」と言われることが全然できなかったんです。先生の言っていること理解できているのだけど、身体がついてこないというか。たまに、まぐれみたいにできるけれど、もう1回やると全然できないという感じで、最初はすごく苦労しましたね。
――できるようになったのは、いつくらいから?
橋岡:高1の冬季練習あたりからです。走力が上がってきて、少しずつ歯車が合い始めたというか、徐々に感覚というのがわかってきました。
――そして2年生になって、好記録がばんばんと出せるようになりました。
橋岡:はい。一番楽しかった時期だったと思います。
――秋の日本ユース選手権(現U18日本選手権)では、高2歴代3位タイとなる7m70をマークしています。それまでの自分の跳躍と、何か違いはありましたか?
橋岡:全然違いましたね。本当に調子がよくて、1本目から7m50オーバーをポンポン跳べたので。感覚的に「あ、こういうのが走幅跳なんだな。走幅跳って、こう跳ぶんだ」というのがわかったような気がしました。
――高校最後のシーズンは、目標に掲げていた8m台はなりませんでしたが、インターハイでは1.6mという向かい風のなか7m75の自己新記録をマーク。安定して7m50台を跳んでいる印象を受けました。どう振り返りますか?
橋岡:記録的には満足はいかなかったのですが、高校3冠(インターハイ、国体、日本ジュニア選手権優勝)も達成できたので、結果としてよかったのではないかと思います。ただ、「ちょっと8(m)にとらわれすぎたな」というのが反省点。特に、試合数が残り少なくなってきた秋の国体や日本ジュニア(現U20日本選手権)は思いきって跳ぼうと臨んでいたつもりでしたが、頭の片隅に「8」への意識があったように思います。そういう部分で、自分らしく行ききれてなかったな、と思いますね。
ダイヤモンドアスリート研修で視野が広がる
トップ選手だった両親の支えにも感謝
――第2期(2015-2016)ダイヤモンドアスリートとして、高校2年生の冬に認定されてから、2回のシーズンと3回目のオフシーズンを過ごしていますが、変化したこと、感じていることはありますか?
橋岡:シーズンに入ってしまうと、もう自分が(競技を)やるだけなので、あまりに気にすることはないのですが、冬場は合宿などもあるので、自分がダイヤモンドアスリートだと実感することは多いですね。また、リーダーシッププログラムなどの講習があることで、競技は関係なく、スポーツの枠すら超えて、さまざまな分野の専門家の方々の話をたくさん聞くことができています。そこで学んだことは、大きく自分に影響を及ぼしているのかなとも思います。考え方や視野が広がるという意味で、自分の糧になっているように感じますね。
――うまく活用できている感じはありますか?
橋岡:そうですね、語学のほうは、自分のなかのレベルも上げられたかなと感じています。栄養の面に関しては、陸上選手だった母がよくわかっていて、子どものころからバランスのとれた食事を用意してくれているので特に変わることはないのですが、自分自身が、より心がけるきっかけになったように思います。
――お母さまの話題が出たところで、ご両親の話を伺いましょう。お母さまの直美さん(旧姓・城島)は、中学生のころから走幅跳、100mHで活躍し、100mHと三段跳では日本記録もマークしている名選手ですし、お父さまの利行さんも、棒高跳で高校記録や日本記録を樹立し、トップボウルターとして活躍されました。ご両親は、どういう形で支えてくださっているのですか?
橋岡:本当に普通に、一般の家庭と変わらないかなと思います。純粋に応援してくれていますので。
――「頑張れ、頑張れ」というよりは、見守ってくれている感じ?
橋岡:はい。父も母も、それが嫌いというか、プレッシャーをかけることはしませんね。もともと陸上を始めるときも、「やりたかったらやれば」みたいな感じ。「息子の人生だから、やりたいようにやらせる」という考えのようです。だから、例えば、もし、サッカーをやっていたとしても、変わりなく応援してくれていたと思うし、そういうところが、とてもありがたいですね。僕の記録が伸びてきて、競技者らしく(笑)なってきたころからは、試合のあとで「こういうところは、ちょっと腰が高かったほうがよかったかもね」というように、元競技者として意見をくれたりするようになりましたが、基本は指導者の先生にお任せするというスタンス。関わりすぎてくるわけでもなく、関わってこなさすぎるわけでもなく、本当にいいバランス、いい環境だと感謝しています。
――2017年は、日本大学に進んで1年目のシーズンでした。日本選手権優勝を果たし、記録的にも8mオーバーを達成するとともに、高いレベルで安定した跳躍ができていた印象がありますが、ご自身はどう感じていますか?
橋岡:そうですね。高校の時に比べたら、8m近い記録でほぼ安定させることができたので、記録的に見ればいいかなと思うのですが、自分のなかでは全然満足できていないです。
――そのあたりを、具体的に振り返っていただけますか?
橋岡:関東インカレまではよかったのですが、そこからちょっと、自分のなかで考えていた内容とは違うというか、ちょっと足踏みしちゃったかなと感じています。
――それは、もう1つ視野に入れていた世界選手権代表に向けて、ということでしょうか? 具体的に「行けるかも」という手応えを感じたのは、初の8m台(8m04)をマークして優勝した関東インカレあたりから?
橋岡:そうですね。シーズンが始まって、記録も出ていて、調子もよく、このままいけば行けるんじゃないかという漠然としたものはあったのですが、関東インカレの確か4回目の、ファウルしてしまった跳躍で、ものすごくいい手応えを感じることができたんです。それは、(8m04を跳んだ)6本目よりもいい感じだったので、よりいっそう「このシーズンのうちに記録が出せるんじゃないか」という自信になりました。ファウルはファウルだけど、感覚としてはすごくよかったので。
――ロンドン世界選手権参加標準記録(8m15)や日本記録(8m25)への可能性を感じられる「いいファウル」だったわけですね。その後、8m05(+1.4)の自己新で日本選手権を制して、南部記念では追い風参考(+3.2)ながら8m07と好記録はマークしているけれど、標準記録には届きませんでした。
橋岡:悔しさしかなかったですね。ただ、その段階では、すぱっと踏ん切りをつけて、今できることをやろうと、ユニバーシアードで結果を出すことに気持ちを切り替えていたのですが…。
――大会直前の練習で、右脚ハムストリングスを肉離れ。台北ユニバーシアードは無念の欠場となってしまいました。どんな状況で痛めたのですか?
橋岡:60mのダッシュをしたときに、身体を起こす20~30mのあたりでやってしまいました。
――調子はどうだったのですか?
橋岡:日本選手権の時よりもよかったです。森長(正樹)先生とも課題として話し合っていたお尻周りの筋肉と、そこからハムストリングにかけての筋肉が、よりうまく使えるようになっていて、助走のノリもかなり伸びやかにいけるようになっていたので。
――好調のときほど、怖いという面がありますからね。それからは試合には出場せず、シーズンを終えました。重症だったのですか?
橋岡:重症度でいうと2度にかかるかどうかといったところ。全治1カ月半くらいの状態でした。なので、秋の試合も、終盤なら出ようと思えば出られたのですが、そこで無理してはいけないなと思って治療とリハビリに専念しました。
――そうした反省も含めて、どういうことを感じましたか?
橋岡:陸上人生初のケガをしたシーズンだったので、自分としては学ぶことが多かったと思います。調子がよくても、その調子のよさに乗っかってしまって頑張り過ぎるとこういうことになるんだな、と。ケガをしたことが、より大きな成長の糧になるのではないかと感じています。
――痛みは伴ったけれど、そのぶん大きな学びもあっということですね。
橋岡:そうですね。
――大学生になって、トレーニング環境は変わりました。生活のほうの変化は?
橋岡:変化はほぼないといっても過言ではないかな、と。大学を選ぶ際、自宅通学を基準の1つとしていたんです。家から通っているので、生活環境自体の変化はありません。また、指導の面でも、もともと渡邉先生も日大の出身で、森長先生と大きく違うところがなかったので、「ちょっとワングレードアップしたかな」という感じ。本当にすんなり移行することができました。
――日本記録保持者(8m25)でもある森長先生から指導を仰ぐことになりました。
橋岡:これは僕も周りから聞いたことなのですが、僕を指導するために、森長先生は渡邉先生ともかなり連絡を取り合ってくださったそうです。そのおかげで、僕は、森長先生の指導を本当にすんなり受け入れることができました。また、そうしたなかで、高校のときよりもワンランク高いレベルのことに取り組めたので、吸収率もよく、記録の更新につながったのかなと思います。
――自分のなかで、跳躍のどこが変わったと思いますか?
橋岡:助走の部分が変わりました。森長先生も仰っていたのですが、僕の踏み切りからの部分にかけては、今は大きく直す必要性がないということだったので、助走をより良くして跳躍につなげていこうとしてきたんです。そこが一番変わった部分かなと。
――2018年の目標は?
橋岡:まずは、アジア大会で優勝すること。それから、僕は早生まれなのでU20世界選手権に出られるんです。おそらくマイケル・マッソー(キューバ;2017年世界選手権5位、2016年世界ジュニア・2015年世界ユース金メダリスト。2017年にはU20世界歴代3位となる8m33をマーク)も出てくると思うので、そこで戦って、優勝して、日本チームに貢献できたらな、と。
――それらを達成するために想定している記録は?
橋岡:試合になれば、自己ベストというのは関係なくて、その場面でどれだけ跳べるかということになると思いますが、ロンドン世界陸上の結果とかから考えると、(8m)30は確実に必要かなというふうに考えています。
――では、そのくらいの力を持った状態で大会に臨んで、そこで勝負したいと?
橋岡:そうですね。アジア大会で勝負することになる中国の選手にしても、マッソーにしても、8m30を超えるベストを持っているので、自分も(8m)30を上回る自己記録を持ったうえで、本番でもそれに近い記録を確実に残せるようにできたらなと思います。まあ、簡単ではないことですが、そこを目標にしています。
――去年の冬の段階で、「8m20~30くらいは、感覚的になんとなく見えるイメージがある」と話していましたが、そこは1年経って変化していますか?
橋岡:より明確になってきたかな、と。最近、それをまた感じています。練習で少しずつ感覚も戻ってきていて、「あ、もうちょっとここを改善すればいいのかな」という1歩先の部分も考えられるようになってきたので、そこをつかんでシーズン序盤でうまく波に乗せていきたいです。
――スケールアップした跳躍が見られることを楽しみにしています。
>>ダイヤモンドアスリート特設ページはこちら
ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第1回は、走幅跳の橋岡優輝選手(日本大学)に話を伺いました。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/フォート・キシモト
中学時代は四種競技に取り組む
楽しみながら戦った全日中で3位に
――陸上競技はいつから? 何かきっかけはあったのですか?
橋岡:始めたのは中学1年からです。部活に入らなければいけない中学で、両親が陸上をやっていたのは知っていたので、「自分もやってみようかな」と興味本位で始めました。
――それまでは、いろいろなスポーツをやっていたそうですね。
橋岡:サッカーとか野球とかを。ただ、「スポーツ」というよりは「遊び」感覚でしたね。
――1年生のときは、100mに取り組んでいた? その後、四種競技含め、いろいろな種目に取り組んでいますが、どういう経緯で?
橋岡:1年のときは100mだけやっていました。2年になったときに顧問の先生が替わり、そのころハードルをやってみたいと取り組み始めていたのですが、先生から「ハードルの練習として四種に出ろ」と言われたことがきっかけで四種競技もやるようになりました。言われたときは「それって、逆じゃないのかな?」とも思いましたが、今思うと、当時、僕があまり部活に出ていたわけではなかったので、四種をやることでバランスよく体力を高めようとしたのかもしれません。その年の秋の新人大会で3位になって、そこからは四種競技主体でやるようになっていきました。
――そして、中3の春先に標準記録を突破して、全日中へ出場されたわけですね。初めての全国大会はどうでしたか?
橋岡:楽しかったです。今もそうですが、自分は昔からあまり緊張しないタイプ。なので、全く緊張することもなく、ただ、楽しみました。
――3位という結果でしたが、優勝を狙うとかいう感じではなかったのですか?
橋岡:勝ちを意識するほど練習をしていなかったので(笑)。「楽しんでやっていたら、3番になっちゃった」という感覚のほうが強かったですね。
――陸上を続けていこうと思ったのは、そのあたりから?
橋岡:そうですね。全日中で入賞したのをきっかけに、「高校でもやっていきたいな」と思い、進学先を考えるようになりました。
走幅跳の面白さを知った高校時代
――そして、八王子高校へ進学します。顧問の渡邉大輔先生は、走幅跳でオリンピックや世界選手権にも出場している名選手。橋岡くんにとっては叔父さまでもあります。
橋岡:はい。
――高校を選んだ経緯は?
橋岡:もともと走幅跳がやりたかったんです。跳躍種目が大好きで、跳ぶのが大好きという感じだったので。
――中学でやっていたのは、走幅跳でなく走高跳でしたよね?
橋岡:はい、中学では走高跳をやっていたのですが、母が走幅跳をやっていたこともあり、もともと興味があったんです。試合には出ていないけれど、練習では少しやったこともあります。それで高校では、本格的に取り組んでみたいなと。(叔母の夫である)渡邉先生との関係もあったので、じゃあ、八王子高校へ、という形になりました。
――高校1年生のときは、その走幅跳になじんでいくのに苦労したと聞きました。
橋岡:かなり苦労しました。
――どういったことで?
橋岡:先生に「こういう感覚で跳ぶんだよ」と言われることが全然できなかったんです。先生の言っていること理解できているのだけど、身体がついてこないというか。たまに、まぐれみたいにできるけれど、もう1回やると全然できないという感じで、最初はすごく苦労しましたね。
――できるようになったのは、いつくらいから?
橋岡:高1の冬季練習あたりからです。走力が上がってきて、少しずつ歯車が合い始めたというか、徐々に感覚というのがわかってきました。
――そして2年生になって、好記録がばんばんと出せるようになりました。
橋岡:はい。一番楽しかった時期だったと思います。
――秋の日本ユース選手権(現U18日本選手権)では、高2歴代3位タイとなる7m70をマークしています。それまでの自分の跳躍と、何か違いはありましたか?
橋岡:全然違いましたね。本当に調子がよくて、1本目から7m50オーバーをポンポン跳べたので。感覚的に「あ、こういうのが走幅跳なんだな。走幅跳って、こう跳ぶんだ」というのがわかったような気がしました。
――高校最後のシーズンは、目標に掲げていた8m台はなりませんでしたが、インターハイでは1.6mという向かい風のなか7m75の自己新記録をマーク。安定して7m50台を跳んでいる印象を受けました。どう振り返りますか?
橋岡:記録的には満足はいかなかったのですが、高校3冠(インターハイ、国体、日本ジュニア選手権優勝)も達成できたので、結果としてよかったのではないかと思います。ただ、「ちょっと8(m)にとらわれすぎたな」というのが反省点。特に、試合数が残り少なくなってきた秋の国体や日本ジュニア(現U20日本選手権)は思いきって跳ぼうと臨んでいたつもりでしたが、頭の片隅に「8」への意識があったように思います。そういう部分で、自分らしく行ききれてなかったな、と思いますね。
ダイヤモンドアスリート研修で視野が広がる
トップ選手だった両親の支えにも感謝
――第2期(2015-2016)ダイヤモンドアスリートとして、高校2年生の冬に認定されてから、2回のシーズンと3回目のオフシーズンを過ごしていますが、変化したこと、感じていることはありますか?
橋岡:シーズンに入ってしまうと、もう自分が(競技を)やるだけなので、あまりに気にすることはないのですが、冬場は合宿などもあるので、自分がダイヤモンドアスリートだと実感することは多いですね。また、リーダーシッププログラムなどの講習があることで、競技は関係なく、スポーツの枠すら超えて、さまざまな分野の専門家の方々の話をたくさん聞くことができています。そこで学んだことは、大きく自分に影響を及ぼしているのかなとも思います。考え方や視野が広がるという意味で、自分の糧になっているように感じますね。
――うまく活用できている感じはありますか?
橋岡:そうですね、語学のほうは、自分のなかのレベルも上げられたかなと感じています。栄養の面に関しては、陸上選手だった母がよくわかっていて、子どものころからバランスのとれた食事を用意してくれているので特に変わることはないのですが、自分自身が、より心がけるきっかけになったように思います。
――お母さまの話題が出たところで、ご両親の話を伺いましょう。お母さまの直美さん(旧姓・城島)は、中学生のころから走幅跳、100mHで活躍し、100mHと三段跳では日本記録もマークしている名選手ですし、お父さまの利行さんも、棒高跳で高校記録や日本記録を樹立し、トップボウルターとして活躍されました。ご両親は、どういう形で支えてくださっているのですか?
橋岡:本当に普通に、一般の家庭と変わらないかなと思います。純粋に応援してくれていますので。
――「頑張れ、頑張れ」というよりは、見守ってくれている感じ?
橋岡:はい。父も母も、それが嫌いというか、プレッシャーをかけることはしませんね。もともと陸上を始めるときも、「やりたかったらやれば」みたいな感じ。「息子の人生だから、やりたいようにやらせる」という考えのようです。だから、例えば、もし、サッカーをやっていたとしても、変わりなく応援してくれていたと思うし、そういうところが、とてもありがたいですね。僕の記録が伸びてきて、競技者らしく(笑)なってきたころからは、試合のあとで「こういうところは、ちょっと腰が高かったほうがよかったかもね」というように、元競技者として意見をくれたりするようになりましたが、基本は指導者の先生にお任せするというスタンス。関わりすぎてくるわけでもなく、関わってこなさすぎるわけでもなく、本当にいいバランス、いい環境だと感謝しています。
8m超えと日本選手権優勝を果たすも、満足できなかった2017年シーズン
――2017年は、日本大学に進んで1年目のシーズンでした。日本選手権優勝を果たし、記録的にも8mオーバーを達成するとともに、高いレベルで安定した跳躍ができていた印象がありますが、ご自身はどう感じていますか?
橋岡:そうですね。高校の時に比べたら、8m近い記録でほぼ安定させることができたので、記録的に見ればいいかなと思うのですが、自分のなかでは全然満足できていないです。
――そのあたりを、具体的に振り返っていただけますか?
橋岡:関東インカレまではよかったのですが、そこからちょっと、自分のなかで考えていた内容とは違うというか、ちょっと足踏みしちゃったかなと感じています。
――それは、もう1つ視野に入れていた世界選手権代表に向けて、ということでしょうか? 具体的に「行けるかも」という手応えを感じたのは、初の8m台(8m04)をマークして優勝した関東インカレあたりから?
橋岡:そうですね。シーズンが始まって、記録も出ていて、調子もよく、このままいけば行けるんじゃないかという漠然としたものはあったのですが、関東インカレの確か4回目の、ファウルしてしまった跳躍で、ものすごくいい手応えを感じることができたんです。それは、(8m04を跳んだ)6本目よりもいい感じだったので、よりいっそう「このシーズンのうちに記録が出せるんじゃないか」という自信になりました。ファウルはファウルだけど、感覚としてはすごくよかったので。
――ロンドン世界選手権参加標準記録(8m15)や日本記録(8m25)への可能性を感じられる「いいファウル」だったわけですね。その後、8m05(+1.4)の自己新で日本選手権を制して、南部記念では追い風参考(+3.2)ながら8m07と好記録はマークしているけれど、標準記録には届きませんでした。
橋岡:悔しさしかなかったですね。ただ、その段階では、すぱっと踏ん切りをつけて、今できることをやろうと、ユニバーシアードで結果を出すことに気持ちを切り替えていたのですが…。
――大会直前の練習で、右脚ハムストリングスを肉離れ。台北ユニバーシアードは無念の欠場となってしまいました。どんな状況で痛めたのですか?
橋岡:60mのダッシュをしたときに、身体を起こす20~30mのあたりでやってしまいました。
――調子はどうだったのですか?
橋岡:日本選手権の時よりもよかったです。森長(正樹)先生とも課題として話し合っていたお尻周りの筋肉と、そこからハムストリングにかけての筋肉が、よりうまく使えるようになっていて、助走のノリもかなり伸びやかにいけるようになっていたので。
――好調のときほど、怖いという面がありますからね。それからは試合には出場せず、シーズンを終えました。重症だったのですか?
橋岡:重症度でいうと2度にかかるかどうかといったところ。全治1カ月半くらいの状態でした。なので、秋の試合も、終盤なら出ようと思えば出られたのですが、そこで無理してはいけないなと思って治療とリハビリに専念しました。
――そうした反省も含めて、どういうことを感じましたか?
橋岡:陸上人生初のケガをしたシーズンだったので、自分としては学ぶことが多かったと思います。調子がよくても、その調子のよさに乗っかってしまって頑張り過ぎるとこういうことになるんだな、と。ケガをしたことが、より大きな成長の糧になるのではないかと感じています。
――痛みは伴ったけれど、そのぶん大きな学びもあっということですね。
橋岡:そうですね。
2018年に目指すのは、アジア大会とU20世界選手権の制覇
橋岡:変化はほぼないといっても過言ではないかな、と。大学を選ぶ際、自宅通学を基準の1つとしていたんです。家から通っているので、生活環境自体の変化はありません。また、指導の面でも、もともと渡邉先生も日大の出身で、森長先生と大きく違うところがなかったので、「ちょっとワングレードアップしたかな」という感じ。本当にすんなり移行することができました。
――日本記録保持者(8m25)でもある森長先生から指導を仰ぐことになりました。
橋岡:これは僕も周りから聞いたことなのですが、僕を指導するために、森長先生は渡邉先生ともかなり連絡を取り合ってくださったそうです。そのおかげで、僕は、森長先生の指導を本当にすんなり受け入れることができました。また、そうしたなかで、高校のときよりもワンランク高いレベルのことに取り組めたので、吸収率もよく、記録の更新につながったのかなと思います。
――自分のなかで、跳躍のどこが変わったと思いますか?
橋岡:助走の部分が変わりました。森長先生も仰っていたのですが、僕の踏み切りからの部分にかけては、今は大きく直す必要性がないということだったので、助走をより良くして跳躍につなげていこうとしてきたんです。そこが一番変わった部分かなと。
――2018年の目標は?
橋岡:まずは、アジア大会で優勝すること。それから、僕は早生まれなのでU20世界選手権に出られるんです。おそらくマイケル・マッソー(キューバ;2017年世界選手権5位、2016年世界ジュニア・2015年世界ユース金メダリスト。2017年にはU20世界歴代3位となる8m33をマーク)も出てくると思うので、そこで戦って、優勝して、日本チームに貢献できたらな、と。
――それらを達成するために想定している記録は?
橋岡:試合になれば、自己ベストというのは関係なくて、その場面でどれだけ跳べるかということになると思いますが、ロンドン世界陸上の結果とかから考えると、(8m)30は確実に必要かなというふうに考えています。
――では、そのくらいの力を持った状態で大会に臨んで、そこで勝負したいと?
橋岡:そうですね。アジア大会で勝負することになる中国の選手にしても、マッソーにしても、8m30を超えるベストを持っているので、自分も(8m)30を上回る自己記録を持ったうえで、本番でもそれに近い記録を確実に残せるようにできたらなと思います。まあ、簡単ではないことですが、そこを目標にしています。
――去年の冬の段階で、「8m20~30くらいは、感覚的になんとなく見えるイメージがある」と話していましたが、そこは1年経って変化していますか?
橋岡:より明確になってきたかな、と。最近、それをまた感じています。練習で少しずつ感覚も戻ってきていて、「あ、もうちょっとここを改善すればいいのかな」という1歩先の部分も考えられるようになってきたので、そこをつかんでシーズン序盤でうまく波に乗せていきたいです。
――スケールアップした跳躍が見られることを楽しみにしています。
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