10月初旬の愛媛国体で、今季限りで第一線から退くことを表明していた女子やり投日本記録保持者の海老原有希選手(スズキ浜松AC)が11月5日、母校の国士舘大学(東京都多摩市)で実施されていた第7回国士舘大学競技会女子やり投に出場し、現役最後の試合に臨みました。競技場には、海老原選手の両親や所属先であるスズキ浜松ACのチームメイトや関係者、国士舘大の後輩や同窓生のほか、やり投だけにとどまらない陸上界の多くの選手、元選手、関係者が多数来場し、海老原選手の最後の投てきを見届けました。
14時45分から開始となった女子やり投には21名が出場。海老原選手とともに夏のロンドン世界選手権日本代表に選ばれた斉藤真理菜選手(国士舘大、今季62m37の学生新記録を樹立)や宮下梨沙選手(大体大T.C)をはじめとして、前U20記録保持者の森友佳選手(旧姓:佐藤、東大阪陸協)、ダイヤモンドアスリートの長麻尋選手(和歌山北高)など、国内トップクラスのスローワーもエントリーしたため、トップエイトの進出ラインは49m33になるレベルの高さとなりました。
2回目に52m44をマークした海老原選手は、前半を4位で折り返すと、4回目は51m83、5回目の試技は投てき後に自身で足を踏み出してファウルに。大きな手拍子に包まれてスタートした最終6回目は、やりを手から放ったあと、両手でスターティングラインの外を叩いて自らファウルとし、52m44・5位という結果で競技を終えました。
海老原選手は、1985年生まれ。小学校では野球に、中学ではバスケットボールに取り組んでいましたが、栃木・真岡女子高校入学後から本格的に陸上競技の道へ。取り組み始めたばかりのやり投で1年時からインターハイに出場し、2年時の2002年には茨城インターハイで2位、翌2003年長崎インターハイはやり投は3位にとどまったものの、七種競技で優勝を果たすなど、早くから注目を集める存在でした。
国士舘大進学以降は、1年時の2004年に世界ジュニア選手権で5位、3年の2006年には日本選手を初制覇してアジア大会で銅メダルを獲得、翌2007年にはユニバーシアード8位と、岡田雅次コーチの指導のもと、やり投選手として目覚ましい成長を見せていきます。スズキ(現スズキ浜松AC)所属2年目の2009年に、60m84をマークして日本人2人目となる60m越えを果たすと、ベルリン世界選手権に初出場。2010年のアジア大会では61m56の日本新記録(当時)で金メダリストに。2回目の出場となった2011年テグ世界選手権では、日本女子投てきとして史上初となる決勝進出を果たして9位の成績を残しました。日本記録は、その後、2012年(62m36)、2013年(62m83)と塗り替え、2015年に現日本記録となる63m80まで更新。日本選手権では4連覇(2012~2015年)を含めて9回優勝し、世界選手権には2017年ロンドン世界選手権まで5大会連続で、オリンピックには2012年ロンドン大会、2016年リオデジャネイロ大会と連続で出場するなど、数々の素晴らしい実績を上げてきました。
身長164cmと投てき選手としては小柄ながら、抜群の身体能力から繰り出す高い助走スピードを生かした投てきが最大の武器。一方で、そのぶん身体にかかる負担も大きく、競技生活の大半は相次ぐケガと戦いながらの日々でもありました。しかし、どんなに状況の悪いときでも諦めることなく常に高い目標に向かう姿勢は、男女や年代を問わず多くのアスリートたちから尊敬され、その人間的な魅力と大きな包容力で、国際大会での女子主将を何度も務めるなど、まさに日本陸上界のリーダー的な存在として活躍してきました。
印象に残る投てきを尋ねると、「狙って記録を出すことができた」として、国内では、ロンドンオリンピックへの出場を決めた2012年日本選手権における当時の日本新記録62m36を、国外では、初めて日本記録をマークして金メダル獲得を果たしたアジア大会での61m56を挙げた海老原選手。ずっと目標に掲げていた世界大会での入賞を実現させることができず、その点に「悔しさはある」としつつも、「ずっと出続けて戦ってこられたこと、そして、自分らしく戦ってこられたことへの満足感はある。いい競技人生だった」と振り返りました。
今後に関しては未定とし、具体的な方向性には触れませんでしたが、「お世話になった方々に、恩返しがしたいという思いがある。何が一番の恩返しになるのか、ゆっくり考えて最善の道を見つけたい」と話しました。
【海老原有希選手コメント】
「最後の試合は、ここ(母校である国士舘大での競技会)にしようと思っていた。チームのユニフォームを着て、ここに立つことができてよかった。今回、私が出るということで集まってくれた選手もいる。まるで日本選手権のような試合になって嬉しかった。また、(試合を見るために)たくさんの人が足を運んでくれた。なかには遠くから来てくださる人もいて、試合前から同窓会かと思うような感じもあった。私一人のためにこんなに集まってくださって、本当に嬉しいという思いでいっぱいである。
(引退については)シーズンに入る段階で、“今年が最後になっても悔いがないようにしよう”と思っていたのだが、今シーズンは、戦っていくなかで、なかなか(世界選手権出場の)標準記録を越えることができなかった。投げられそうで投げられない、その“投げられそう”というところのレベルが、自分の思うところまで行っていないという思いもあった。そういう点で、試合を追うごとに、(現役を続行するのは)“厳しいかな”という思いが積み重なっていったような感じだった。これまでも、1年1年が本当にぎりぎり(の状態)で来ていたので、いつこういうときが来てもおかしくないという思いはずっとあった。それが今年だったということなのだと思う。
ずっと世界で入賞したいという思いで取り組んできて、それが達成できなかったことには悔しさもあるが、一方で、ずっと出続けて戦ってこられたということ、そして、国内においても国外においても、自分らしく戦ってこられたかなという思いはあって、そこへの満足感はある。(ケガに苦しむことが多かったけれど)ケガをしたのも自分だし、その状態でどこまで戦えるか、ケガは言い訳にしたくないという思いでずっと投げてきた。ケガをしている身体だったけれど、これが私だった。そんななかで、たくさんの方々に応援してもらえた。本当にいい競技人生だった。
今、女子やり投は盛り上がってきている。私には成し遂げることができなかったけれど、後輩たちには、ぜひ、(世界大会で)決勝だけでなく、入賞を果たして、“日本人初”を実現してほしいと強く思う。
やり投の競技人生17年間、本当にたくさんの方にかかわっていただいて、応援していただいて、最後まで投げきることができた。本当に幸せな競技人生だった。たくさんの応援、ありがとうございました」
文:児玉育美/JAAFメディアチーム
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