2020年東京オリンピック、その後の国際競技会での活躍が期待できる次世代の競技者を強化育成する「ダイヤモンドアスリート」制度。単に、対象競技者の競技力向上だけを目指すのではなく、アスリートとして世界を舞台に活躍していくなかで豊かな人間性とコミュニケーション能力を身につけ、「国際人」として日本および国際社会の発展に寄与する人材に育つことを期して、2014-2015年シーズンに創設されました。すでに3期が終了し、これまでに9名が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11名が認定され、第4期がスタートしています。
ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第3回は、やり投の池川博史選手(筑波大学)です。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/陸上競技マガジン
――陸上は中学から始めたそうですね。きっかけはなんだったのですか?
池川:中学1年生のときに、どの部活に入るか迷っていたら、父親から陸上のなかでも投てき競技をやってみないかと言われたことがきっかけです。それで入部して、砲丸投を始めることにしました。
――それまでのスポーツ経験は?
池川:それまでは、野球、水泳、サッカーをやっていました。
――小さいころからやっていたのですか?
池川:最初に始めたのは水泳ですね。その後、小学校1~2年くらいから水泳と並行してサッカーをやって、小学4年のとき、それらをやめて野球を始めました。
――お父さまは砲丸投で日本選手権を制したこともあるトップアスリート。高校時代から有名でしたし、お母さまもハードラーだったと聞いています。ご両親が陸上競技経験者であることは、ご存じだったのですか?
池川:いえ、知らなくて。中1のときに初めて知りました。
――お父さまは、指導もやってらしたでしょう?
池川:そうですね。ただ、昔、日本陸連の投てきにもかかわっていたというのは、高校生になってから聞いたくらいでしたから。
――池川くんご自身は、あまり意識はなかったのですね。
池川:はい。僕自身が野球をやって投げることが好きになったので、それで「投げること」自体に興味を持ったという面があります。
――ただ、砲丸投というのは、野球の「投げ」とはちょっと違いますよね。始めたころ、戸惑いはなかったのですか?
池川:確かに違いますが、戸惑いはなかったですね。砲丸投という種目を知って、初めて投げたわけですが、自分でもなぜかわからないけれど、なんか魅力を感じたというか、面白さを感じました。陸上競技っていうのは、0.1秒、0.01秒動きが変われば、出てくる記録も変わってきます。そこが魅力で砲丸投に取り組みました。
――中学2年時の全日本中学選手権で4位に、その年のジュニアオリンピックBクラスでは優勝を果たしています。1年生の時の最高成績は?
池川:県の新人戦で3位になったことが最高でしたね。あと中学2年のときは、中2最高記録(15m98)を出しています。
――そして、中3のときは、全日中と国体少年Bでともに2位、ジュニアオリンピックAクラスで優勝したわけですね。高校では、迷わず陸上をやろうと考えた?
池川:はい。中3(2013年)の秋に東京オリンピックの開催が決まったこと、それから、この年には世界ユース選手権(現U18世界選手権)があったので、そこに出た先輩方への憧れもありました。「いつかJAPANのユニフォームを着たいな」と思っていたこともきっかけになっていますね。そして、世界を目指すためには、やり投が一番近いかなと思ったので、高校ではやりにも挑戦していくことにしました。
――東京オリンピック開催決定と世界ユースが、池川くんのやり投選手への道を切り拓いてくれたのですね。
ケガに泣いた高2シーズン
――2014年に滝川第二高校へ入学。高校1年のシーズンは、順調といえる結果だったのでしょうか? インターハイでは1年生ながら決勝に進んで10位。砲丸投では高1歴代9位となる15m40をマークしていますし、高校から取り組み始めたやり投も、日本ユース選手権で高1歴代2位の63m23を投げて2位の成績を収めています。
池川:思ったより記録もよかったですね。でも、そのあと、大きなケガをして、1年を棒に振ってしまいました。
――そのケガは、どんな状況だったのですか?
池川:1年のときの11月に、練習のウォーミングアップのとき、サッカーボールに乗ってしまう形で転んでしまったんです。右足腓骨のき裂骨折のほか靱帯も損傷しました。手術をして、ボルトを入れたり外したり。そのために冬は全く練習できませんでした。そうこうしているうちに次のシーズンが始まって…。2年生のときは、あっという間に終わっていたという感じでした。
――アジアユース選手権に出たり、インターハイや日本ユースでは入賞したりしていますが、満足のいく結果ではなかった?
池川:「もっと投げたいのに」という気持ちしかなかったですね。身体がついていきませんでした。
――ダイヤモンドアスリートの第1期生に選ばれたのは、ケガした直後のことだったのですね。
池川:正直、自分が選ばれたのは何かの間違いなのではないかと思うこともありました。そもそも最初の認定式のときは、ケガで出席することもできていなかったので。
――その後の回復は?
池川:可動域が狭くなったりはしていましたが、1年間しっかりリハビリしたのと、高2の冬は練習が積めたので、そこでカバーできたように思います。右足首はやりでは、投げるときの後ろ足。ここで右足に乗せた体重を、100の状態で左足に100伝えなければなりません。そこが2年生のときは20~30だったのが、3年のときは80~90あたりまで持ってこられたのかなと思います。
――でも、100ではなかったわけですね。その高校3年の2016年シーズンはいかがでした?
池川:冬も合宿を中心にけっこう練習ができていたので、安心してシーズンに臨むことができていました。春先から自己記録を5mくらい更新できましたし、近畿大会では初の70mとなる70m03をマークできました。U20世界選手権にも出場できたし、インターハイも優勝することができましたから。反省としては、1年通して戦える身体でなかったこと。シーズン前半はよかったけれど、夏を過ぎると、力が落ちてしまいました。まあ、高校1年の冬がケガで全然できなかったので、高2の冬が本格的に取り組んだ初めての冬期練習でしたし、練習場所の関係で投げ込みができず、ウエイトトレーニングとかチューブトレーニングとかで補っていたという面もありましたから、そこは仕方なかったのかもしれません。
――U20世界選手権では感じたことも多かったようですね。
池川:はい。経験するだけで終わらしたくないという思いで臨んでいました。結果的に予選落ちに終わってしまいましたが。独特の雰囲気があって、初めての国際大会となったアジアユースとは全然違うなと思いました。
――投てき種目になると、体格も大きな人が出てくるでしょうし。
池川:そうですね、そして、みんな技術もうまかったです。この大会で、僕はやり投U20世界新記録が樹立された瞬間(ニーラジュ・チョプラ、インド、86m48)を生で見たのですが、スピードも技術もすべてがマッチした投てきで、自分が目指す場所はここなんだということを再確認したんです。そして、もっと投げ込む必要があるなということも実感しましたね。
――圧倒されたというよりは、刺激を受けた?
池川:はい。投げた瞬間は、「うわっ」と思ったのですが、よくよく考えるとライバル。2020年に向けて、「こいつを倒さないと金(メダル)はない」と。「よーし、俺が20歳になったら、ぶっ倒してやろう」と思いました(笑)。
――高校卒業後は筑波大学へ。なぜ、筑波大を選んだのですか?
池川:小さいころから、将来は指導者になりたいと思っていました。大学院まで行って、教授か先生になって、自分で選手を指導して、大会に送り出せたらなというのが夢だったんです。そのための勉強ができ、そして、恵まれた環境のなかで競技を続けられると思ったので、筑波大学を選びました。
――高校から大学へ進むまでの冬期練習は、順調にできていたのですか?
池川:ずっと海外でやっていました。安藤財団のグローバルチャレンジプロジェクトで支援をいただき、ドイツとフィンランドに行っていました。
――ドイツは今、やり投で90mオーバーを果たす選手が続々と出てきている国ですし、フィンランドはやり投をお家芸とする伝統国。それぞれどこで練習したのですか?
池川:ドイツはイエナという地方都市にあるL.C.Jenaという陸上クラブです。リオ五輪金メダリストのトーマス・レーラー選手が所属して、滞在中は、一緒にトレーニングを行いました。また、フィンランドのほうは、クオルタネにあるオリンピックセンター。ここは国際陸連がやり投の強化拠点として認定している場所でもあります。
――特に印象深かったこと、学んだことは?
池川:質の高さというか、内容が詰まっていたことですね。2部練習なのですが、一度に何種目もやるのではなく1~2種目くらい。なので、練習自体はすごく早く終わってしまうのですが、すごく集中してやる感じ。そんななかで、いかに自分の力をしっかり発揮するかが大切なのだなと感じました。投てきに置き換えると、1投目2投目にどれだけ投げられるかというような。そういうところがとても勉強になりました。
――充実したトレーニングを積むことができていたわけですね。
池川:納得のいく練習ができていたので、「よっしゃ、これ行けるぞ」と思っていたのですが…。
――右肘を痛めてしまった…。
池川:そうなんです。初戦として出場した東京選手権で少し痛みがあったのですが、関東インカレの学内選考会だった2試合目の筑波大記録会で痛めてしまいました。選手に選ばれたので関東インカレにも出場したのですが、全然ダメで…。
――靱帯を痛めていたのなら、回復に時間がかかったのでは?
池川:関東インカレ後は、試合には出ていません。9月初旬の日本インカレには出ましたが28位という結果。そのあたりからようやく練習を積めるようになって、9月末の筑波大記録会に出ました。71~72mくらいとんでいたのだけどファウルしちゃって…。
――自己記録を上回っていただけに、残念でしたね。そして、5位になった10月のU20日本選手権がシーズン最後の試合になってしまったわけですね。
池川:はい。ただ、U20日本選手権は出るか出ないか迷っての出場だったので、シーズンを通じて、出たいと思って出た試合は、9月末の筑波大記録会だけでした。高2のときに足首を折って、思うように投げられず1年棒に振って、高3でやっと直って70mを投げられて、で、「よっしゃ」と思ったらまたケガしたので…。
――悔しさの大きい1年だったわけですね。ご自身では、どう評価しますか?
池川:結果だけみると0点です。でも、ケガをしたことによって、自分のなかで、できつつある技術もあるので…。
――そこはどういう技術?
池川:昨年の日本インカレで優勝している小南拓人さん(国士大→筑波銀行)の投げに、自分も近づきたいなと思っています。小南さんの投げだと、肘に痛みが出ないんです。高校のころも参考にしていたのですが、今シーズンは肘を壊したことで、いろいろな投げをやってみたのですが、やっぱり、小南さんの投げが一番しっくりくることがわかったので。
――小南くんとは親しいのですか?
池川:僕が高校2年くらいのときから、お世話になっている先輩です。すごく尊敬しています。
――肘のほうは、その後、完治したのですか?
池川:はい。ただ、たまに痛みが出るので、しっかりアイシングしたりしています。
――心身ともに痛みの伴う1年だったといえるのではないかと思いますが、焦りはなかった?
池川:焦りはなかったのですが、悔しかったですね。同期の江島(雅紀、日本大)、橋岡(優輝、日本大)が2人とも活躍していたので。「ああ、いいなあ」と思って見ていました。でも、今年は追いつくつもりです。
2018年は、70m台をベースに「77m」を
――では、それを踏まえて2018年シーズンはどんな目標を?
池川:僕の目標では、記録的にいうと、すべての試合で最低でも70mを投げられるようにしたいと思っていて、一番の目標は77mを投げたいと思っています。ダイヤモンドアスリートに行われるリーダーシッププログラムのなかで、数学的思考の講義(第3回:勝てるアスリートの数学的思考)があったのですが、それにあてはめて考えると、「77m」というシーズンの最大目標を投げるためには、いろいろな要素が必要なので、それを全部クリアしていくことで最終目標につなげていきたいなと思っているんです。
――確かディスカッションのときに、自分は昨年、ケガの要素を踏まえていなかったので、それが掛け算されたことでゼロになってしまった、というような話をしていましたね。
池川:はい。それが欠けるとすべてがゼロになってしまう要素もある、ということは、講義を聞いて、「本当にそうだな」と思ったので。
――目標にする試合は?
池川:とりあえず日本選手権。まずはそこに出場して、それが前半シーズンの目標ですかね。
――今年20歳となる池川くんにとっては、今年は国際競技会への目標設定が難しいですね。年齢的にはシニアの大会で考えなければならないし、かといって、アジア大会を狙うには、もうワンランク上げていく必要がありますし。
池川:そうなんです。なので、今年はまずはしっかり「77m」という目標に向かっていく感じでしょうか。そして、まずは日本選手権を目標にしたいと思っています。2019年にはユニバーシアードもありますし、それが学生としては一番大きな大会となるので、そこで80mを投げられるように向かっていきたいですね。そのためにも、2018年シーズンは、まずベストを更新していかないと話にならないので。
――では、2018年シーズンは、悔しかった昨シーズンのぶんも上乗せしての飛躍となることを楽しみにしています。
池川:頑張ります。
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ここでは、第4期となる「2017-2018認定アスリート」へのインタビューを掲載していきます。第3回は、やり投の池川博史選手(筑波大学)です。
◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真/陸上競技マガジン
「投げる」面白さに魅せられて
――陸上は中学から始めたそうですね。きっかけはなんだったのですか?
池川:中学1年生のときに、どの部活に入るか迷っていたら、父親から陸上のなかでも投てき競技をやってみないかと言われたことがきっかけです。それで入部して、砲丸投を始めることにしました。
――それまでのスポーツ経験は?
池川:それまでは、野球、水泳、サッカーをやっていました。
――小さいころからやっていたのですか?
池川:最初に始めたのは水泳ですね。その後、小学校1~2年くらいから水泳と並行してサッカーをやって、小学4年のとき、それらをやめて野球を始めました。
――お父さまは砲丸投で日本選手権を制したこともあるトップアスリート。高校時代から有名でしたし、お母さまもハードラーだったと聞いています。ご両親が陸上競技経験者であることは、ご存じだったのですか?
池川:いえ、知らなくて。中1のときに初めて知りました。
――お父さまは、指導もやってらしたでしょう?
池川:そうですね。ただ、昔、日本陸連の投てきにもかかわっていたというのは、高校生になってから聞いたくらいでしたから。
――池川くんご自身は、あまり意識はなかったのですね。
池川:はい。僕自身が野球をやって投げることが好きになったので、それで「投げること」自体に興味を持ったという面があります。
――ただ、砲丸投というのは、野球の「投げ」とはちょっと違いますよね。始めたころ、戸惑いはなかったのですか?
池川:確かに違いますが、戸惑いはなかったですね。砲丸投という種目を知って、初めて投げたわけですが、自分でもなぜかわからないけれど、なんか魅力を感じたというか、面白さを感じました。陸上競技っていうのは、0.1秒、0.01秒動きが変われば、出てくる記録も変わってきます。そこが魅力で砲丸投に取り組みました。
――中学2年時の全日本中学選手権で4位に、その年のジュニアオリンピックBクラスでは優勝を果たしています。1年生の時の最高成績は?
池川:県の新人戦で3位になったことが最高でしたね。あと中学2年のときは、中2最高記録(15m98)を出しています。
――そして、中3のときは、全日中と国体少年Bでともに2位、ジュニアオリンピックAクラスで優勝したわけですね。高校では、迷わず陸上をやろうと考えた?
池川:はい。中3(2013年)の秋に東京オリンピックの開催が決まったこと、それから、この年には世界ユース選手権(現U18世界選手権)があったので、そこに出た先輩方への憧れもありました。「いつかJAPANのユニフォームを着たいな」と思っていたこともきっかけになっていますね。そして、世界を目指すためには、やり投が一番近いかなと思ったので、高校ではやりにも挑戦していくことにしました。
――東京オリンピック開催決定と世界ユースが、池川くんのやり投選手への道を切り拓いてくれたのですね。
ケガに泣いた高2シーズン
3年時は、生で見たU20世界新記録が刺激に
――2014年に滝川第二高校へ入学。高校1年のシーズンは、順調といえる結果だったのでしょうか? インターハイでは1年生ながら決勝に進んで10位。砲丸投では高1歴代9位となる15m40をマークしていますし、高校から取り組み始めたやり投も、日本ユース選手権で高1歴代2位の63m23を投げて2位の成績を収めています。
池川:思ったより記録もよかったですね。でも、そのあと、大きなケガをして、1年を棒に振ってしまいました。
――そのケガは、どんな状況だったのですか?
池川:1年のときの11月に、練習のウォーミングアップのとき、サッカーボールに乗ってしまう形で転んでしまったんです。右足腓骨のき裂骨折のほか靱帯も損傷しました。手術をして、ボルトを入れたり外したり。そのために冬は全く練習できませんでした。そうこうしているうちに次のシーズンが始まって…。2年生のときは、あっという間に終わっていたという感じでした。
――アジアユース選手権に出たり、インターハイや日本ユースでは入賞したりしていますが、満足のいく結果ではなかった?
池川:「もっと投げたいのに」という気持ちしかなかったですね。身体がついていきませんでした。
――ダイヤモンドアスリートの第1期生に選ばれたのは、ケガした直後のことだったのですね。
池川:正直、自分が選ばれたのは何かの間違いなのではないかと思うこともありました。そもそも最初の認定式のときは、ケガで出席することもできていなかったので。
――その後の回復は?
池川:可動域が狭くなったりはしていましたが、1年間しっかりリハビリしたのと、高2の冬は練習が積めたので、そこでカバーできたように思います。右足首はやりでは、投げるときの後ろ足。ここで右足に乗せた体重を、100の状態で左足に100伝えなければなりません。そこが2年生のときは20~30だったのが、3年のときは80~90あたりまで持ってこられたのかなと思います。
――でも、100ではなかったわけですね。その高校3年の2016年シーズンはいかがでした?
池川:冬も合宿を中心にけっこう練習ができていたので、安心してシーズンに臨むことができていました。春先から自己記録を5mくらい更新できましたし、近畿大会では初の70mとなる70m03をマークできました。U20世界選手権にも出場できたし、インターハイも優勝することができましたから。反省としては、1年通して戦える身体でなかったこと。シーズン前半はよかったけれど、夏を過ぎると、力が落ちてしまいました。まあ、高校1年の冬がケガで全然できなかったので、高2の冬が本格的に取り組んだ初めての冬期練習でしたし、練習場所の関係で投げ込みができず、ウエイトトレーニングとかチューブトレーニングとかで補っていたという面もありましたから、そこは仕方なかったのかもしれません。
――U20世界選手権では感じたことも多かったようですね。
池川:はい。経験するだけで終わらしたくないという思いで臨んでいました。結果的に予選落ちに終わってしまいましたが。独特の雰囲気があって、初めての国際大会となったアジアユースとは全然違うなと思いました。
――投てき種目になると、体格も大きな人が出てくるでしょうし。
池川:そうですね、そして、みんな技術もうまかったです。この大会で、僕はやり投U20世界新記録が樹立された瞬間(ニーラジュ・チョプラ、インド、86m48)を生で見たのですが、スピードも技術もすべてがマッチした投てきで、自分が目指す場所はここなんだということを再確認したんです。そして、もっと投げ込む必要があるなということも実感しましたね。
――圧倒されたというよりは、刺激を受けた?
池川:はい。投げた瞬間は、「うわっ」と思ったのですが、よくよく考えるとライバル。2020年に向けて、「こいつを倒さないと金(メダル)はない」と。「よーし、俺が20歳になったら、ぶっ倒してやろう」と思いました(笑)。
右肘痛め、悔しさ残った2017シーズン
――高校卒業後は筑波大学へ。なぜ、筑波大を選んだのですか?
池川:小さいころから、将来は指導者になりたいと思っていました。大学院まで行って、教授か先生になって、自分で選手を指導して、大会に送り出せたらなというのが夢だったんです。そのための勉強ができ、そして、恵まれた環境のなかで競技を続けられると思ったので、筑波大学を選びました。
――高校から大学へ進むまでの冬期練習は、順調にできていたのですか?
池川:ずっと海外でやっていました。安藤財団のグローバルチャレンジプロジェクトで支援をいただき、ドイツとフィンランドに行っていました。
――ドイツは今、やり投で90mオーバーを果たす選手が続々と出てきている国ですし、フィンランドはやり投をお家芸とする伝統国。それぞれどこで練習したのですか?
池川:ドイツはイエナという地方都市にあるL.C.Jenaという陸上クラブです。リオ五輪金メダリストのトーマス・レーラー選手が所属して、滞在中は、一緒にトレーニングを行いました。また、フィンランドのほうは、クオルタネにあるオリンピックセンター。ここは国際陸連がやり投の強化拠点として認定している場所でもあります。
――特に印象深かったこと、学んだことは?
池川:質の高さというか、内容が詰まっていたことですね。2部練習なのですが、一度に何種目もやるのではなく1~2種目くらい。なので、練習自体はすごく早く終わってしまうのですが、すごく集中してやる感じ。そんななかで、いかに自分の力をしっかり発揮するかが大切なのだなと感じました。投てきに置き換えると、1投目2投目にどれだけ投げられるかというような。そういうところがとても勉強になりました。
――充実したトレーニングを積むことができていたわけですね。
池川:納得のいく練習ができていたので、「よっしゃ、これ行けるぞ」と思っていたのですが…。
――右肘を痛めてしまった…。
池川:そうなんです。初戦として出場した東京選手権で少し痛みがあったのですが、関東インカレの学内選考会だった2試合目の筑波大記録会で痛めてしまいました。選手に選ばれたので関東インカレにも出場したのですが、全然ダメで…。
――靱帯を痛めていたのなら、回復に時間がかかったのでは?
池川:関東インカレ後は、試合には出ていません。9月初旬の日本インカレには出ましたが28位という結果。そのあたりからようやく練習を積めるようになって、9月末の筑波大記録会に出ました。71~72mくらいとんでいたのだけどファウルしちゃって…。
――自己記録を上回っていただけに、残念でしたね。そして、5位になった10月のU20日本選手権がシーズン最後の試合になってしまったわけですね。
池川:はい。ただ、U20日本選手権は出るか出ないか迷っての出場だったので、シーズンを通じて、出たいと思って出た試合は、9月末の筑波大記録会だけでした。高2のときに足首を折って、思うように投げられず1年棒に振って、高3でやっと直って70mを投げられて、で、「よっしゃ」と思ったらまたケガしたので…。
――悔しさの大きい1年だったわけですね。ご自身では、どう評価しますか?
池川:結果だけみると0点です。でも、ケガをしたことによって、自分のなかで、できつつある技術もあるので…。
――そこはどういう技術?
池川:昨年の日本インカレで優勝している小南拓人さん(国士大→筑波銀行)の投げに、自分も近づきたいなと思っています。小南さんの投げだと、肘に痛みが出ないんです。高校のころも参考にしていたのですが、今シーズンは肘を壊したことで、いろいろな投げをやってみたのですが、やっぱり、小南さんの投げが一番しっくりくることがわかったので。
――小南くんとは親しいのですか?
池川:僕が高校2年くらいのときから、お世話になっている先輩です。すごく尊敬しています。
――肘のほうは、その後、完治したのですか?
池川:はい。ただ、たまに痛みが出るので、しっかりアイシングしたりしています。
――心身ともに痛みの伴う1年だったといえるのではないかと思いますが、焦りはなかった?
池川:焦りはなかったのですが、悔しかったですね。同期の江島(雅紀、日本大)、橋岡(優輝、日本大)が2人とも活躍していたので。「ああ、いいなあ」と思って見ていました。でも、今年は追いつくつもりです。
2018年は、70m台をベースに「77m」を
――では、それを踏まえて2018年シーズンはどんな目標を?池川:僕の目標では、記録的にいうと、すべての試合で最低でも70mを投げられるようにしたいと思っていて、一番の目標は77mを投げたいと思っています。ダイヤモンドアスリートに行われるリーダーシッププログラムのなかで、数学的思考の講義(第3回:勝てるアスリートの数学的思考)があったのですが、それにあてはめて考えると、「77m」というシーズンの最大目標を投げるためには、いろいろな要素が必要なので、それを全部クリアしていくことで最終目標につなげていきたいなと思っているんです。
――確かディスカッションのときに、自分は昨年、ケガの要素を踏まえていなかったので、それが掛け算されたことでゼロになってしまった、というような話をしていましたね。
池川:はい。それが欠けるとすべてがゼロになってしまう要素もある、ということは、講義を聞いて、「本当にそうだな」と思ったので。
――目標にする試合は?
池川:とりあえず日本選手権。まずはそこに出場して、それが前半シーズンの目標ですかね。
――今年20歳となる池川くんにとっては、今年は国際競技会への目標設定が難しいですね。年齢的にはシニアの大会で考えなければならないし、かといって、アジア大会を狙うには、もうワンランク上げていく必要がありますし。
池川:そうなんです。なので、今年はまずはしっかり「77m」という目標に向かっていく感じでしょうか。そして、まずは日本選手権を目標にしたいと思っています。2019年にはユニバーシアードもありますし、それが学生としては一番大きな大会となるので、そこで80mを投げられるように向かっていきたいですね。そのためにも、2018年シーズンは、まずベストを更新していかないと話にならないので。
――では、2018年シーズンは、悔しかった昨シーズンのぶんも上乗せしての飛躍となることを楽しみにしています。
池川:頑張ります。
>>ダイヤモンドアスリート特設ページはこちら