日本陸連普及育成委員会が主催する第22回JAAFコーチングクリニックが1月7日、日本女子体育大学(東京都世田谷区)で行われました。今回は、新たな試みとして、「女性指導者のためのコーチングクリニック」と題し、女性指導者および、今後指導に関わることを目指す女性を対象としたプログラムに。跳躍種目の実技講習のほか、元トップアスリートによるトークセッション、女性特有の諸問題を学ぶワークショップが行われ、全国から集まった53名が受講しました。
取材・構成/児玉育美(JAAF メディアチーム)
>>【委員会レポート】女性指導者のためのコーチングクリニック(普及育成委員会)Vol.1
ワークショップ①
元トップアスリート5名によるトークセッション
午後は、屋内でのワークショップ2つが実施されました。最初に行われたのは、日本の陸上界に新たな歴史をもたらした5名の元トップアスリートによるトークセッション。午前の実技講習で指導に当たった近藤氏、井村氏のほか、やり投日本記録保持者(63m80)で2012年ロンドン五輪・2016年リオデジャネイロ五輪代表の海老原有希氏(スズキ浜松AC)、1991年東京世界選手権400mH出場の長谷川順子氏(ミズノ株式会社)、200m・400m元日本記録保持者(24秒00、53秒73)で1982年アジア大会4冠の磯崎公美氏(ナイキジャパン)という豪華な顔触れが揃いました。各氏は、陸上競技を始めたきっかけ、競技を続けていく上でのモチベーション、自身の競技観に影響を与えた人物や出来事、引退等を、それぞれに振り返るとともに、現在の仕事の話、女性の陸上競技への参加に対する思いを語り、受講者へ向けたエールを送りました。
◎陸上競技をスポーツメーカーの立場で支える:磯崎氏、長谷川氏
磯崎氏は、中学時代はバレーボール部で、高校入学後に陸上競技を始め、わずか1年で日本選手権100m・200m優勝、200m・400mでインターハイ優勝の成績を収めると、高校3年時の1982年には、インターハイで短距離3冠、アジア大会200m・400m・4×100mR・4×400mRの4種目で金メダル獲得するという金字塔を打ち立て、一気に日本女子短距離界の頂点に立った選手。同年には、200mでは日本女子初の23秒台に限りなく迫る24秒00の、400mでは日本女子で初めて54秒を切る53秒78の日本記録も樹立。これらの記録は、その後10年間破られることはありませんでした。
高校卒業後は、ナイキジャパンに入社して実業団選手として競技を続けましたが、20歳前後のころは、周囲からの期待を感じるなかで頑張ろうとすると故障して走れずと、うまく噛み合わないときもあった。「陸上をやりたくない時期もあった」と当時を振り返り、そのなかで競技を続けていけたモチベーションはなんだったのかとの問いに、「世界大会に出てみたいという思いがあった。(活躍できるように)もう一回頑張ろうという気持ちで取り組んだ」と答えました。
最終的には、ケガがきっかけとなり、28歳のときに引退。そのまま、ナイキジャパンに残って、スポーツマーケティング部で、今も陸上競技を担当しています。自身のセカンドキャリアについて、「私が現役のころは、メーカーに今の自分のような立場で働く女性はいなかったので、(引退後に)やってみたいという思いもあった。ここまで続けてこられたのは、ナイキジャパンが居心地のよい所だったからということもあると思う」と述べ、陸上に関わる仕事を続ける喜びを、「サポートしている選手が活躍してくれること。もっと頑張ってサポートしていきたいという気持ちになれる」とコメント。また、全国都道府県女子駅伝などで女性が監督を務めたり、女性だけでスタッフを組んだりするチームができていることを例に挙げ、「オリンピックや世界選手権などでも、もっともっと派遣される女性の代表コーチが増えるようになれば…」と、女性指導者のさらなる活躍に期待を寄せました。
ソフトボール部だった中学生のころ、テレビで見たインターハイで、磯崎氏が100m、200m、400mで3冠を達成したことを知って驚き、「あの人みたいになりたいと思ったことがきっかけで、高校から陸上競技を始めた」と話したのは長谷川氏。高校では短距離に取り組み、日本女子体育大学へ進んでからは、400mを中心としていましたが、3年生のときに、当時のコーチの勧めがきっかけで400mHを始め、あっという間にトップハードラーとなりました。「“先生が勧めてくれるのだから、私には合っているんだろうな”と、前向きな意識で取り組んでいた」という長谷川氏ですが、自身で「最初で最後の大失敗」と打ち明けたのが1991年に東京で開催された世界選手権でのレース。「いつもうまくこなせるスタートから1台目の歩数が合わなかった。“よし、日本記録が出てもいいくらいの状態だ”という思いで挑んだその意気込みが、自分を空回りさせてしまった。今、思えば、それは自分の未熟さだったと思う」と、当時を振り返りました。
引退後もミズノ株式会社の社員として、ミズノトラッククラブのマネジメント業務を担当し、現在に至っています。そうした陸上競技に関わる仕事をしてきたなかで、一番勉強になっているとして長谷川氏が挙げたのは、選手と指導者との関わりの部分。「選手の所属先の人間として一歩引いた目で見ていると、その師弟関係から学ぶことはとても多い」と述べました。さらに、指導者だけでなく、陸上界に関わる女性をもっと増やしていくためには何が必要かという問いに対しては、「男性と女性はもともと違うもの。女性だからこそできる役割もあると思う。まずは、女性である自分だからこそできることを、仕事の場面でも1つ1つ積み重ねていくことが大事ではないか。それが結果的に周囲の女性への理解を高め、さらに自身の能力を高めるきっかけになると思う」と答えました。
◎陸上競技を指導者の立場で支える:近藤氏、井村氏
午前の実技講習で棒高跳の講師を務めた近藤氏も、長谷川氏と同様に、大学時代に新たな種目に挑戦しことで、日本を代表する選手へと変貌を遂げたアスリートです。陸上競技自体は中学生のころからやっていたものの、「走幅跳をやっていたなんて、隣に井村さんがいる前では恥ずかしくて言えない(笑)。全国大会にも行ったことがない」というレベル。早大1年時の秋、翌年から棒高跳が日本選手権実施種目になると知り、「“これなら日本一になれるかも”という勝手な多い込みと、経験したことのない“上に跳ぶ”ことに興味があった」ことがきっかけで棒高跳を始めたといいます。まだ女子用のポールが簡単には手に入らない時代。「最初に使ったのは、1学年上の男子の先輩が高校から借りてきてくれたポール。14フィート、130ポンドとすごく重くて、初心者が使えるポールではなかったが、それしかなかったので、1人でせっせと補強し、壁に向かって突っ込み動作とかをやった。あまりに背中が疲れて張りすぎて仰向けで寝られないという日が続いたけれど、すごく楽しかったので、(棒高跳に)のめり込んでいった」と、当時を振り返りました。
大学卒業後は、長谷川体育施設の所属で競技を続け、トップボウルターとして活躍しましたが、2011年の日本選手権で「ケガ明けとはいえ跳べると思っていた高さが跳べなかった。会社に所属してやる以上、世界に出て戦える選手でないといけないと思っていたので」、その日の夜に引退を決断し、セカンドキャリアとして、「私の指導者が高校の教員で、指導を受けていた十何年間、選手との関係を見ていて面白さを感じていた」ことから高校指導者の道を選択。7年目となった今年度で2回目の卒業生を出す一方で、陸上部の顧問としても活躍しています。「今は種目を問わず、勉強させてもらいながら必死にやっている。強豪校の多い近畿では、地区を突破してインターハイに行くことが大変で、そこを破って全国へ…というのが私自身の目標・夢にもなっている」と話しました。指導に際しては、「楽しくやる、その延長上に結果が出るというのが、長く続けていける一番の秘訣。それを生徒に伝えることを心がけている」と述べ、受講者に「陸上が楽しかったと言えるような選手をたくさん育成してもらえれば」と訴える一方で、「棒高跳は特殊競技。指導についてお困りのことがあったら、いつでもご連絡を」と呼びかけました。
また、女性指導者を取り巻く環境については、「私の周りでは、けっこう女性の指導者は多いが、私を含め結婚していない人が多い。指導があるからということだけが独身の理由ではないと思うが、やはり出産・結婚は1つの大きな壁ではないか」と述べ、「特に、子育ての部分では、もう少し国が支援を充実させてくれれば、女性の指導者はもっと増えていくと思う」と指摘しました。
近藤氏とともに、午前の実技講習で走幅跳の講師を務めた井村氏は、陸上一家に生まれ、子どものころから、陸上競技と遊びがリンクする環境で育ちました。小学5年で全国的に注目されるようになり、中学1年で12歳世界最高記録となる5m97をマーク。中学3年時には走幅跳で6m19、100mJHでも13秒78の中学記録をマークするなど数々の実績を残し、早くから「天才少女」として期待を一身に注がれる存在に。しかし、その後、思春期による身体の変化に起因する伸び悩みに見舞われました。
当時の苦悩を、「それまで“楽しいから練習する、記録も伸びる”だったのが、高校1年生くらいから応援が重荷になった。また、記録が伸びないことで“ああ、大人は結果でしか振り向いてくれない”と実感する残酷な場面も経験した」と明かした井村氏が、競技を続ける支えとなり、自身の競技観に影響を及ぼしたと挙げたのが父とのエピソード。「当時、下宿生活をしていた私に、毎晩電話をかけてきて、“おまえは自信さえ取り戻せたら大丈夫”と言い続けてくれた。そのときはうるさく感じていたが、日本記録(2006年)を跳べたときに脳裏に浮かんだのは、その言葉だった」と述べたほか、「跳べなくなった時期に言われた心ない言葉を恨んでいたが、父から“人を恨んで、仕返ししても何も返ってこないよ”と常に言われていた。その経験が、今、指導者になって生きていて、どんなに苛ついたりうまくいかなかったりしても、一度、自分でリセットして、“相手は今、どういう言葉が欲しいのか”と考えることができている」と話しました。
2008年に北京五輪に出場したあと結婚して競技を継続。2013年に第一線を退いてからは、夫とクラブチームを立ち上げ、指導者の道を歩んでいますが、「実は、競技をやめてからも、ずっと6mは跳べていて、自分の中では“引退した”という感覚はあまりなかった」と井村氏。昨年夏に出産したことで、「子どもに見せたいな。復帰してみようかな」という気持ちが芽生えつつあるとも打ち明けました。
指導者としては、「トップ(選手)として、自分の経験を伝えればいいという感覚だったのが、幅広い年代を指導して、いろいろな人に出会ったり、メンタルトレーナーやカウンセリングの資格の勉強をしたりするなかで、まずは技術より先に、いかに“その人に合ったコミュニケーションがとれるか”が大事ということに気づいた。それが自分の味わった嬉しい経験や悲しい経験と結びつき、今、いろいろな引き出しを持てるようになっている」と振り返り、それは、毎日指導に当たることで、今も学び続けているといいます。「選手には、なるべく“考えて、実践して、振り返って、次をどうする”というサイクルで指導すること、そして“じっくり成長を見守っていく”ことをやってほしい。決して1つのマニュアルには当てはまらない。ぜひ、それぞれのオリジナルのカラーを出して頑張ってほしい」と、受講者にエールを送りました。
◎現役を退き、新たな立場で陸上競技を支える:海老原氏
海老原氏は、やり投で日本記録を4回更新し、オリンピックは2大会に連続出場、世界選手権は5大会連続で出場するとともに、2011年テグ大会では、日本女子投てき史上初の決勝進出を果たす(11位)などの実績を残し、日本の女子陸上界を長く牽引してきた選手。昨シーズンで競技生活に区切りをつけたばかりです。「まだやめて2カ月だが、運動しない日がこんなにもあったことがない。今の生活を楽しんでいる」と言う海老原氏は、小学校では野球に取り組み、中学はバスケットボール部に所属していました。その中学でやり投の適性を見抜いた陸上部の先生から「高校ではやり投を」と言われた続けたことがきっかけとなり、高校から陸上競技の世界へ。やり投自体の記録は、国士舘大へ進んでから大きく伸び始め、社会人になってから世界大会へ出場するレベルへと成長しました。
“世界で戦う”にこだわって競技を続けてこられた大きな契機となった大会として挙げたのが2009年ベルリン世界選手権。「スズキには、すでに井村さんや村上幸史さんといった先輩が世界で戦っていて、学生のころから“ああ、この人たちと一緒に世界大会に出たい”と思っていた。2009年に初めて世界選手権に出場できたわけだが、いざ、出てみたら、自分とのレベルは雲泥の差で大きなショックを受けた。しかし、そのベルリン大会で、それまで何年も世界に跳ね返されていた村上さんが銅メダルを獲得。それを間近で見たことで、“ああ、もしかしたら私にもできるかもしれない。諦めずに世界で戦おう”と思うきっかけになった」と振り返りました。
競技を退くことを決めた背景として、狙うところで狙った結果が出せなくなっていたこと、長年抱えていた膝のケガが著しく悪化したことを挙げましたが、「でも、やめるときは、周りから言われてではなく自分で決めたいと思っていたので、悔しさはあるけれど、後悔はない。私ができなかったことは、後輩たちに託したい」と話しました。
それまで明らかにしていなかった引退後の去就についても触れ、スズキ浜松アスリートクラブのチームスタッフとして働くこと、すでに1月1日付けで辞令も出ていること、翌日の1月8日が初出勤となることが海老原選手自身から報告。「なので、今日が2018年の初仕事(笑)。これからも皆さんと同じ陸上界にいる。コーチングやマネジメントのスタッフということになるので、今度はチームの選手のために私が支えていけるよう、気持ちも新たに取り組みたい」と力強い言葉を聞かせてくれました。
また、これまでとは異なる立場で陸上競技に関わっていく上で、「選手の話や悩みを聞き、そこで自分の経験を還元できたらと思うが、そのためには表現の仕方が重要になってくる。まずは、自分の経験したことを、言葉に換えられるようにすることを、これから勉強していかなければ」と、今後の自身の課題も挙げ、「諦めずに取り組む選手をサポートしていけるよう頑張りたい。お互いに2018年も頑張りましょう」と受講者に呼びかけ、大きな拍手を浴びていました。
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