EVENT REPORT

提供:Jump Festival
©HIKARI PRODUCTION / KOBE TETSUJIN PROJECT 2024

イベントレポート現役生活中にMBAを取得。引退後、主催する「JUMP FESTIVAL」を経て現役復帰。~走高跳を通じて、する側とささえる側から、陸上を広める機会を少しでもつくっていきたい~
衛藤 昂 (一般社団法人Jump Festival代表理事/神戸デジタル・ラボ所属走高跳選手)

「2040年の日本陸上界をワクワクするものにしたい!」
そんな思いを胸に、陸上の可能性と未来を考える『RIKUJO JAPAN』プロジェクト。今回は、日本陸連がミッションとして掲げている「国際競技力の向上」と「ウェルネス陸上の実現」のどちらも実践している人物をご紹介しよう。男子走高跳の衛藤昂選手(神戸デジタル・ラボ)がその人だ。衛藤選手は、2回目のオリンピック出場を果たした2021年で、いったん第一線から退いたが、今シーズンから本格復帰。自己タイ記録となる2m30を3年ぶりにマークし、再びの世界大会出場を狙える位置へと浮上してきている。
同時に、2021年に立ち上げた一般社団法人Jump Festivalの代表理事としても活躍。巨大な『鉄人28号』のモニュメントで知られる兵庫県神戸市長田区の鉄人広場で開催する街中走高跳「JUMP FESTIVAL」は今年で4回目を迎えようとしている。日本を代表するトップジャンパーとして活躍するなかで、「JUMP FESTIVALの種」は、どういう形で芽吹いていったのか、その背景を知るべく話を伺った。

  • 衛藤 昂 えとう・たかし1991年2月、三重県鈴鹿市生まれ。小学校から陸上を始めて、中学より走高跳に取り組む。鈴鹿工業高等専門学校から筑波大学大学院へ進み、修了後の2015年かからは味の素AGFの所属で活躍。日本選手権では4回の優勝実績を持ち、オリンピックは2大会(2016年リオ、2021年東京)、世界選手権は3大会(2015年北京、2017年ロンドン、2019年ドーハ)に出場した。東京オリンピックに出場した2021年シーズンを機に、第一線を退いたが、その後も競技を続け、2024年シーズンから神戸デジタル・ラボの所属で本格復帰。7月には自己タイの2m30をクリアした。2020年秋からは競技活動を並行して経営大学院で学び、2024年3月にMBAを取得。また、2021年夏に立ち上げた一般社団法人Jump Festivalでは、代表理事として新しいスポーツの価値づくりに取り組んでいる。

ハイジャンパーのスタートは長距離選手
駅伝ランナーに憧れた子ども時代

――衛藤選手と陸上との出合いは、どういうものだったのですか?

衛藤:両親が陸上をやっていたんです。全国大会に行くレベルではありませんでしたが、そういった陸上一家に生まれて、自然な流れですっと陸上競技に入っていったという感じでしたね。もう一つは、全日本大学駅伝の存在です。熱田神宮から伊勢神宮までタスキを繋いでいく大会ですが、僕の出身が三重県鈴鹿市で、ちょうど自宅の近所がコースだったんですね。初めて見たスポーツ選手が駅伝選手だったこともあり、実は、長距離を始めたのが最初だったんです。

――跳躍ではなく長距離だったのですね? ご両親は何をやっていたのですか?

衛藤:父が走幅跳・三段跳で、母が長距離をやっていました。近くに陸上クラブがあって、週に1回、土曜日だけやっていたのですが、小学校3年生のとき、そこに入ったのが最初です。60mとか走幅跳とか、いろいろな種目をやりましたが、長距離では1000mという種目があったので、1000mに出ることが多かったですね。

――そこから走高跳を始めることになった経緯は?

衛藤:最初は自分自身も、「長距離をやって、箱根(駅伝)を走ろう」と思っていたんです(笑)。小学校の卒業文集にもそう書いていたくらいでしたから。でも、その一方で、長距離は競争率が高くて、なかなか勝てないという難しさも痛感していて、「本当に自分に向いている競技ってなんなんだろう?」というのは、当時から思っていました。
走高跳との最初の出合いは、小学生の体育の授業です。そこで跳べたことがきっかけで、小学校最後の試合となった鈴鹿市の記録会で走高跳に出て優勝したんですね。それが「あ、自分はこっちのほうが向いてるかも」という転機になったような気がしています。

――もともとジャンプ力があったのでしょうか?

衛藤:あったのかもしれませんね。でも、走高跳をやっている人自体が少なかったし、県に繋がる大会でもなかったので、自分の実力がどのくらいのものなのかは、そのときにはわかっていませんでした。

――それで、中学から走高跳を?

衛藤:中学校では、陸上部員が少なかったので、夏場のシーズン中は走高跳をやって、冬は駅伝を走って…みたいな3年間でした。記録が伸び始めたのは高専(鈴鹿工業高等専門学校)に進んでからです。

――体型は? 子どものころから背は高かったのですか?

衛藤:いいえ、低かったんです。同じ学年の中でも成長が遅くて、中学校を卒業するときは母と同じ165cmくらい。「これ以上、伸びないのかな」と思っていたのですが、高専1年のときに、一気に181cmまで伸びたんですね。それとともに、走高跳の記録も伸びていったという感じでした。

「シューズ職人になろう!」と
高専に進学したものの…

――鈴鹿工業高等専門学校への進学を選択したのは、どういう理由が?

衛藤:「自分は競技者としては大成できないんじゃないかな」ということを中学生ながらに感じて、でも、陸上競技には携わりたいという思いがあったんですね。「将来、どうしていこうかな」を考えていた中学2年のときにアテネオリンピックがあって、そこで同郷の野口みずきさんが女子マラソンで金メダルを獲得して、そのときに履いていたシューズがすごく注目されたんです。それを見て、「あ、僕はシューズ職人になろう」と。選手でなく、シューズ職人になって、将来、日本を代表する選手の靴をつくっていきたいなと思ったのが、高専を選ぶ理由になりました。

――では、高専では、シューズつくりに関係することを勉強した?

衛藤:そういうことを勉強したかったのですが、ちょっと違っていました(笑)。材料工学科というところに入学して、「材料のことだから、たぶん靴の勉強もできるだろう」と思っていたのですが、それが、もっぱら金属に関する勉強だったんです。この金属を、どのくらい温めて叩くと硬度が強くなるとか、アルミはこういう属性があってとかといった内容で、シューズに全然関係のない内容ばかり…(笑)。だから、シューズの勉強をストレートにできたとはいえませんでしたね。

――そんななかで、身長も伸びて、記録も伸びてきて、「走高跳をもっと極めていこうかな」という方向になったのでしょうか?

衛藤:高専は5年間あるので、高専4年に進むときも、受験とか進路かを全然考えなくてよかったんですよ。だから、「ここにいれば、5年は陸上ができるな」と思いました(笑)。入学したときには、1m71の自己記録しか持っていなかったので、5年間で2m00は跳べるようになりたいなと思っていました。走高跳で2m00を跳んだって言えば、少し誇れるかなと思ったので、それが陸上競技で掲げた最初の目標でしたね。

――シューズの勉強はできなかったけれど、その5年間があったからこそ、日本を代表するハイジャンパー、衛藤選手が誕生したわけですね。どんどん記録が伸びていくと、高跳びが楽しくてたまらないという気持ちだったのでは?

衛藤:そうですね。試合に出るたびに自己ベストという時期はありましたね。

衛藤選手の思う
走高跳の魅力と難しさ

――そんな衛藤選手が、走高跳をやったことのない人に、走高跳の魅力や面白さを伝えるとしたら、どんな点を伝えたいですか?

衛藤:「バーが落ちればアウトで、残っていればOK」という、すごく単純明快なルールがいいなと思いますね。そういう白黒はっきりしているところが魅力といえます。あと、バーを越えると、その瞬間、背中に風が吹くような感じがするんですね。その気持ちよさが好きですし、バーに身体が触れてしまったときの「(バーが)残ってくれるかなあ」というドキドキ感とかにも、面白さがあります。

――でも、走高跳って、トップレベルになっても、毎回100%跳べるわけじゃないんですよね。その難しさもまた、逆に面白さだったりするのでしょうか?

衛藤:確かにそれは言えますね。水平方向のエネルギーを鉛直方向に変える競技なので、そこが難しいですし、踏み切りも0.15~0.20秒という速度のなかで完結しなければなりません。スピードとか、角度とか、身体の位置みたいなことのすべてを、一瞬のうちにコントロールしなければならないんです。そこが再現性を難しくしているともいえますね。

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――私は野球経験者なのですが、野球やサッカーの場合は、「来た球をどう打つか」「相手から飛んできた球をどうするか」ということを考えるんですよね。でも、今、陸上のことをいろいろと知っていくなかで、同じスポーツなのにすごく違うなと感じています。陸上の場合は、例えば、内省の度合いとか、自分をどうコントロールするのかというのが、非常に深いと感じているのですが…。

衛藤:そうですね。同じことの繰り返しなので…。例えば、走高跳の場合は、同じマークから、同じ踏み切り位置で、同じように跳んでいきます。僕は、ゴルフはやらないけれど、それはゴルフの打ちっ放しに似ているのかもしれません。ほんの少しの微妙なズレで全然違う方向に飛んでいってしまいますよね。そうした微妙な調整とか力の加減とかが、かなり重要です。

一切考えていなかった「復帰」を決めた背景は?

――走高跳で素晴しい成績を上げるようになってからの衛藤選手の活躍は、誰もが知るところですが、2回目のオリンピック出場を果たした2021年の東京大会で、一度引退を決意されました。そこを区切りにしたのはなぜだったのでしょう?

衛藤:自国で行われるオリンピックという、この上ない舞台でしたし、本来予定されていた2020年であれば29歳で迎えるはずだったので、年齢的にも集大成にする区切りのいいタイミングかなと考えていました。実際には、(コロナ禍の影響で)延期となって、2021年シーズンに向けては、最後だと思って1年前に頑張った冬季練習を、「最後をもう1回やっている」みたいな感じで取り組み、そのうえでしっかりと代表権を勝ちとっていったというところに、少しメンタル的にも疲れてしまった面もありました。2021年シーズンを終えたとき、身体は元気だったのですが、その時点では復帰は一切考えていなくて、競技からは完全に退くつもりでいたんです。

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――そこから復帰しようと思った背景には、どんなことが?

衛藤:JUMP FESTIVALを立ち上げたり、練習会などのいろいろな場で中学生や高校生と一緒になったりしたなかで、「やっぱり走高跳って楽しいな」とか、「自分はどこまででも跳べるんじゃないか」とか、「今週よりも来週、来週よりも再来週はもっと跳べるようになっていくんじゃないか」とかいう気持ちを思い出して、また跳びたくなってきたというのがありました。

――では、JUMP FESTIVALの活動なども含めて、全く(競技を)やらなかったわけではなくて、違う形で続けてはいたのですね?

衛藤:はい、JUMP FESTIVALでは自分が跳んで見せるというのもあるので、全然跳べないとカッコ悪いし(笑)、最低限の練習はしないといけないというのがあったので、トレーニングと言っていいのか微妙という程度ではありましたが、身体を動かすことは続けていました。

JUMP FESTIVALの原風景は
チェコで経験した街中走高跳

――JUMP FESTIVALについてお聞かせください。映像等を拝見していると、いわゆる競技場でない、ストリートに近いところで開催していて、面白い取り組みだなと感じたのですが、実施につながったきっかけはあったのですか?

衛藤:きっかけとなったのは、2013~2014年くらいのころ、ヨーロッパ遠征に派遣していただいたときに出場した、チェコの小さな街で開かれた大会です。体育館にオールウェザー(全天候型走路)を敷いて、そこで走高跳の公認競技会が行われていたんですね。
走高跳って、陸上競技場だと、トラックの中のサッカーゴールが設置されるところにマットを置いてやりますよね。お客さんからはめちゃくちゃ遠いところで寂しくやっている感じ(笑)なのですが、その競技会では、手を伸ばしたら、お客さんに届くようなところで跳んでいくわけです。まず、その近さにびっくりしました。自分には「走高跳は陸上競技場の中でやるもの」という固定概念があって、街の中で競技するという発想が全くなかったので、「ああ、すごくいいな」と思ったのが、すべての始まりになりました。

――その競技会は、オリンピックに出るような選手たちも出場していた?

衛藤:はい、そうです。B決勝、A決勝と分かれ、まずB決勝をやって、A決勝が行われるわけですが、A決勝のほうには、2m30以上を跳ぶ、オリンピックに出るような選手が競い合っていく試合でした。

本人提供

――同じ2m30でも、客席から50m以上離れた場所で跳んでいるのと、すぐ目の前で跳んでいるのとでは…。

衛藤:全然、迫力が違うんですよね。当時の僕はB決勝に出ていたので、観客としてA決勝を見たわけですが、陸上をやっている自分でも「2m30を跳ぶ選手が、こんなに近くで見られるんだ。すごいな!」と…。接地とか、音とか、息づかいとか、そういうのが全部聞こえてきて、選手としても、すごく勉強になりました。

――それを見て、「いつか、やってみたいな」と思った?

衛藤:当時は、「誰かやってくれないかな」と思いました、他力本願で(笑)。ただ、東京オリンピックが近づいてきて、年齢的にも20代後半でベテランといわれるようになってくるなかで、「引退後に、どういった形で恩返しや貢献していくことができるかな」というのを考えるようになったころ、最初は、2m30を跳んだという自分の経験は、コーチングの場面で一番生かせるんじゃないかと考えていたのですが、「走高跳で、こういう海外遠征を経験できた人は、すごく少ないんだろうな」と思ったんですね。「走高跳って、こういう側面もあるんだよ」というのを、日本でも実現できないかなと思うようになったのは、本当にもう東京オリンピックの年くらいでした。

――そうして2021年8月に一般社団法人Jump Festivalを設立されたわけですね。一緒に代表理事を務めていて、翌2022年に結婚された奥さま(中野瞳:走幅跳6m44、三段跳13m00)もジャンパーですよね? 実現に向けては、2人で話し合ってきたのでしょうか?

衛藤:そうですね。当時はエージェント(AR)も一緒で、彼女もヨーロッパの遠征に行ったりしていたんですよ。走幅跳の試合も、室内で行われる場合は、本当に観客の目の前で跳ぶことが可能で、そういった室内陸上の試合を彼女自身が経験していたので、すごく共感してもらえました。「実際に、どうやったらできるのかな」という話を、ずっとしてきました。

「鉄人広場」との出合い
支えてくれる人々との出合い

――実際に、神戸でやる形に行き着くまでには、大変なことも多かったと思うのですが、どんな課題があって、どう乗り越えてきたのでしょう?

衛藤:いや、本当に大変でした(笑)。まず、何が大変だったかというと、「何をしたらいいのかが全然わからない」ということ。今まで、走高跳の試合には、200試合、300試合というほど出てきているのに、大会がどう成り立っているのか知らなかったですし、いろいろなイベントを見たり触れたりはしてきたけれど、やるとなったときにまず何から始めて、どれくらいの人が関わっているのか、どういう人が必要なのかを全然知りませんでした。なので、まずはそのあたりから当たって、調べて…というところから始まりました。当時は、僕は三重県でやっていたのですが、神戸出身の彼女が「ここ、走高跳をするのにちょうどいい広さじゃない?」と挙げたのが、神戸市長田区の若松公園内にある鉄人広場。そのつながりで長田区の地域活性化プロジェクトや街づくりに取り組んでおられる岡田誠司さん(KOBE鉄人PROJECT)に声をかけさせてもらって、「面白いね。ここでやってみようよ」と言ってくださったことで、実現に向けてスタートできたんです。

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――現地に行って、「ここで跳ぶのか」とかとイメージして…?

衛藤:そうですね。走高跳選手は、試合で助走開始位置のマークを置くとき、マットから足長で測っていくわけですが、初めて鉄人広場に行ったとき、平日の広場の真ん中で足長を測って、「ああ、ここなら、全助走まで行けるな」と(笑)。周りから見たら変な人だったと思うのですが(笑)、そうやってサイズ感を確認しました。

――そこから企画をまとめたわけですね? プロモーションだったり、集客だったり、あるいは実行するための予算であったり…と、いろいろ大変だったのではないですか?

衛藤:はい、そこはもう本当に、岡田さんに良くしていただきました。共催という形で参加してくだったのですが、イベントのポスターをデザイナーの方がつくってくださったり、ラジオ関西でMCをしておられる方をDJに呼んでくださったり、音響や警備などの手配もやってくださったんですね。自分たちのやった、ピットをつくって、選手を集めてくるところ以外の準備をしてくださったことは、本当に大きかったです。

跳ぶことを楽しみ、その挑戦が称賛される空間

――今年で4回目となるわけですね。実際に、やってみて感じたことはありますか? 喜びだけでなく、難しさもあるでしょうし、「もっとこうしていきたい」というのも出てきていると思うのですが。

衛藤:意外だったのは、「一番(高く)跳ぶ人が、一番目立つわけじゃないんだな」ということでした。低い高さであっても跳べたら嬉しそうにガッツポーズするとか、楽しそうにやっている選手に、見ている人は拍手喝采するんですね。これが「陸上競技」であれば、「一番高く跳ぶ人」が称えられるところがあると思うのですが、この場では2m00なのか、2m05なのか、2m10なのかは、あんまり関係ないんだな、と(笑)。

――一般の人からすると、そもそも走高跳をやる機会がないでしょうし、しかも、間近でバーが1m50とかに上がったら、普通の人は跳べないと思います。跳んでいく人がいるというだけで驚きますよね。

衛藤:そうなんです。エキシビションマッチには、高校女子の部と、高校男子の部があるのですが、陸上界であれば、女の子でも自分の身長くらい跳ぶの普通のこと。でも、街中でやっていると、「うわ、女子高生が自分の頭よりも高いバーを跳んでるぞ! すごいな」となりますし、男子高校生でも2m00を跳べる選手はたくさんいるけれど、陸上を知らない人だと「高校生で2m00も跳ぶのか!」という驚きの声がまず上がるわけです。そういう素直な反応が、とても新鮮でしたね。普段、走高跳をやっている高校生たちも、自分が2m00を成功しても、2m10とか2m15とか跳ぶ選手が周りにいたら、「自分なんて」と思ってしまいそうですが、JUMP FESTIVALでは大称賛されます。「僕が跳んで、こんなに喜んでもらえるんだ」という嬉しさを実感することができたんじゃないかと思います。

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――出場したのは、どういった高校生たちなのですか? すぐに集まったのですか? 出場しての反応は?

衛藤:兵庫県内に限定していますが、喜んで集まってくれました。そういうイベントがあると知って、(参加するために)準備してくれているという声を聞いて嬉しかったですね。兵庫県の高校ランキングの上位から順に、声をかけさせてもらっているわけですが、街中で、一般の人々の前で、しかも、こんな近くで跳ぶというところが、すごく緊張するらしいです。それはそうですよね、僕も緊張しますから(笑)。

――スタジアムで、離れた位置から見られているのとはまた違う?

衛藤:はい、近くで見られていると、(バーを)落としたら恥ずかしいですから(笑)。挑戦する選手たちも、落とすと、「やっべ」って顔をしています(笑)。でも、跳べると、すごく喜んで、なんとも言えない良い表情を見せてくれるんです。楽しみつつも、すごく緊張してバーに向かっている…。それは競技を続けていくうえでも大切なことです。とても良い空間になっているなと、見ていて感じますね。

――課題に感じていることはありますか?

衛藤:跳ぶ人数が限られてしまうことですね。これはもう競技特性なので、仕方のない部分ではあるのですが。マラソン大会のように、バーンとスタートしてみんなができる種目ではないんですよね。1回の試技で跳べるのは一人だけですし、挑戦権は3回あって、それを繰り返しながら、挑戦できる人がだんだん絞られていく仕組みなので…。それをやっていくと、出場しているのがたとえ8人でも1時間はかかってしまうんですよね。1日のイベントの間に跳べる人は、十数人程度になってしまいます。そこは、ちょっと寂しいかな、と課題になっているんです。

――鉄人広場で実施して、よかったと感じたことはありますか?

衛藤:駅前なので、通りがかりの人が見てくださるんですよ。広場は、新長田駅から商店街に向かう途中にあるんですね。普段、陸上競技に触れる機会の少ない人たちが、立ち止まって熱心に見てくれているのは、すごく嬉しいことでしたね。

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――そうやって、身近に感じてもらうことが、まず大切なのかもしれませんね。

衛藤:そう思います。走高跳は、走幅跳とともに、小学校の体育の学習指導要領に入っていますから、おそらく誰もが子どものころ、一度は体育の授業で走高跳を経験したことはあるはず。そこで記憶が止まっているぶん、高さの感覚が1m00とか1m10とかくらいだと思うんですよ。それを、大人が本気で挑むと、いきなり2m00とかを越えてくるわけです。そういうところにすごさを感じたり、面白く思ってもらえたりするといいなと思いますね。

――将来に向けて、「こうしていきたい」というイメージはありますか?

衛藤:まずは、この神戸・鉄人広場でやっているものを定期的に、何十年とやっていけるようにしていきたい。それが一番の将来の目標です。

――日本陸連が新たに立ち上げた『RIKUJO JAPAN』は、「陸上って、いわゆる“スタジアムでやる陸上競技”だけではなくて、もっと身近なものになっていいんじゃないか。大人になっても楽しめるものになっていいんじゃないか」というところから始まっているんです。そんななかで「こんな活動をしている選手がいますよ」と挙がったのが衛藤選手のお名前でした。「ああ、これは、まさに、私たちが本当に求めているような世界観なんじゃないか」ということで、お話を伺うことになりました。

衛藤:ありがとうございます(笑)。

――走高跳も、もちろんそうなのですが、陸上全般を、どうやって盛り上げていけばいいのかという点で、何か考えておられることはありますか?

衛藤:そうですね…(少し考えて)。自分ができる範囲のなかでは、このJUMP FESTIVALを継続してやっていくことなのかなというのと、あとは、そこに携わってくださっている運営スタッフの方がたくさんいてくださるので、「自分が跳んで見せる」以外のことでも支えるといった部分で、陸上競技を広める機会を少しでもつくっていくことができればいいなと思っています。

――陸上と、ちょっとした接点があるかどうかで、応援するにしても気持ちの入り方が変わってきそうですよね。

衛藤:はい。こうやって、実際に日本で前例をつくることで、もしかしたら、「自分たちにもできるかもしれない」と誰かに思ってもらえるようなメッセージを出せるのかなとは思っています。

MBAを取得すべく経営大学院へ
そこで学んだことは?

――衛藤選手は、競技活動を並行して、グロービス経営大学院でMBA(経営学修士)も取得されたとお聞きしました。それは東京オリンピックを終えてからですか? なぜ、MBAを取ろうと考えたのですか?

衛藤:東京オリンピックが延期になった瞬間です。いろいろ考えた末に、2020年秋からの単科生を経て、2021年4月に大学院(本科)に入学しました。それまではスポーツ選手が、「復興五輪」「インバウンド効果」など、今後の日本を元気にしていこうという雰囲気が高まっていたのに、そのなかでのコロナ禍で、逆にスポーツが不要不急のものと見られるようになってしまいました。自分自身も「スポーツ選手の価値ってなんだろう」と考えたり、「出られる試合もないなかで、トレーニングをしていていいのか」みたいな不安があったりしたんですね。何か少しでもスキルや生き抜く術を見つけようと、グロービスに入学しました。

――それは、スポーツ以外のところで、ビジネスを学ぼうと思ったのですか?

衛藤:自分の経験を、今後のビジネスに生かしていく何かを見つけられたら…と思いました。

――そこで学んだことが、生きていることはありますか?

衛藤:志の部分が大きいですかね。何かを開催するときには、ビジョン(Vision)、ミッション(Mission)、ウェイ(Way)が大切で、「こういった目的を持ってやる」ということをまず明確に掲げて、そこからぶれずに言動を調整していくというところが、今まさに生きています。そもそもこのJump Festivalという団体を立ち上げるという発想に至ることができたのは、ビジネススクールで、事業を興している人たちが周りにたくさんいたから。自分が「ヨーロッパでやっているイベントを、日本でやるというのを形にするというのは、こういうことなんだな」というのを、授業でも、また周りで実践している人からも、本当にたくさん学ばせてもらいました。

――『RIKUJO JAPAN』でやっていきたいとしている事柄のなかには、人材育成的な面もあるんですよ。どうしても、陸上で、それこそ衛藤選手のようにトップレベルになればなるほど、「自分は陸上しかやっていないから」と思いがちだったりするじゃないですか。

衛藤:まさにそう思いましたし、それはグロービスに入るときにも(大学院側に)話しました。

――そのときに、何か言われましたか?

衛藤:劣等感を持つことではないよと言われましたね。逆に、そんな貴重な経験をできた人なんて、世の中にたくさんいるわけではないのだから、と。走高跳だって、最初は全然できなかったはずで、そのなかで頑張ってきたプロセスや、頑張り方というのは、ほかのことでも生かせる。経営学を今から勉強していくうえでも、頑張っていくというフローは一緒だから、そこは一つ成し遂げたものがあるということを自信にしてやっていけばいいんだよと、副学長から直接言ってもらえたことには、とても背中を押されましたね。

――陸上って、本当に内省度も高いし、突き詰め方がほかのスポーツとは少し違ったりもするので、さまざまな場面で生かせる力がつく競技なのかなと思います。

衛藤:確かに、自分で考えて実行して、失敗してもう一回考えて(笑)…みたいなことが、すごく身につきやすいスポーツかなという感じはしますね。

2040年の日本陸上界、衛藤選手の考える
「あったらワクワクすること」は?

――この『RIKUJO JAPAN』は、いったんの目標を2040年に置いているんです。2040年というと、今、小学校に入る年代の人たちが二十歳になるくらいの感覚なのですが、その間に、日本を思いっきり変えられないかなと考えているんです。ジャンプ部門は衛藤選手にお任せするとして(笑)、どういうふうになったら、世の中が変わってくると思いますか?

衛藤:ジャンプ部門で、あったらワクワクするなと思うのは、街中で競技会を開催すること。例えば日本グランプリシリーズの大会や日本選手権で、跳躍種目とか、そのほかの種目の一部を、街で開催しちゃうのはどうでしょうか。ダイヤモンドリーグファイナルでも今、外でやっている種目もあります。そういうのが将来的に実現すると面白いなと思いますね。

――跳躍種目の場合は、そんなにスペースを使わずにできる種目が多いですものね。それならもっと小ぶりな場所…例えば、バスケットボールのアリーナみたいな場所で、観客がすぐ近くで見られるようにすることもできそうですよね。

衛藤:そうなんですよ。25mプールくらいの広さがあればいいんです、走高跳は。それくらいのサイズ感でできるんですよ。だいたいの広場なら、そのくらいのスペースはありますから、観戦できる場所とか、運営に必要な場所とか、必要な付随するスペースがとれるなら、競技場でなくても実施できます。ほかにもそうしたサイズでできる種目は、どんどん外に出ていっても面白いのかなと思いますね。

『RIKUJO JAPAN』を応援してくださる皆さまへ

――最後に、この『RIKUJO JAPAN』プロジェクトをどんどん盛り上げていきたいなと思っているのですが、今現在だと、サイトを見てくださる人は比較的陸上ファンの方が大半なんですね。もっと広めていくために、ご覧になってくださっている方にメッセージをいただけますか?

衛藤:「こうなっていったらいいな」とか「あったらいいな」とかいうのは、たぶん皆さん、お持ちだと思うんです。それを実現しようとなったとき、すごく大きな目標だと、なかなか実現は難しいと思うのですが、最初は小さなところからでいいんですよ、とお伝えしたいですね。私たちも、少しずつやれることを増やしてきました。4回目となった今でこそ、ステージトラックを用意したり、飲食店ブースを出せたりしていますが、1回目のときは、走高跳ピットをつくるので精一杯で…という感じで始まっているんです。そこから少しずつ大きくしていけばいいんだということは、実際にやってみて、肌身で感じていることです。

スロバキアには、街中で実施するジャンプフェストという、我々JUMP FESTIVALの目標というか、リスペクトしている大会があるんです。2016年から続いているのですが、今は、しっかり底上げした仮設ピットで実施していますし、観客席も年々立派になっています。でも、その大会も、やっぱり過去の写真を見ていると、地面に直接オールウェザーの走路を敷いてやっている時代もあったりするんですね。そうやって少しずつ段階を踏みながらやっていけばいいんだなと思うので、何か小さなことからでも、「こうなったらいいな」というものにチャレンジしていくといいと思いますね。

本人提供

――4回目となる今年のJUMP FESTIVALは、11月3日に開催と聞きました。

衛藤:はい。今年は「広げる」をテーマに、少しでも多くの人にジャンプに触れてもらえるようにしていこうと計画中です。昨年同様にエキシビションマッチとして、兵庫県高校女子の部、兵庫県高校男子の部、そして日本トップ男子の部を実施しますが、これに加えて、対象を小・中学生、高校生以上の2つに分けて、走高跳のクリニックも予定しているんです。これまでの良さを継続しつつ、いらしていただける皆さんがより楽しめる要素を、たくさん盛り込んでいこうと計画を練っているところです。一緒にイベントを作ってくださるボランティアスタッフも、これから募集していきます。「面白そうだな」と思った方に、ぜひ、参加していただけると嬉しいです。

――たくさんの方に、鉄人広場へ足を運んでいただけるといいですね。本日は、ありがとうございました。

(2024年7月19日収録)

一般社団法人Jump Festival公式サイト
「ジャンプでみんなにワクワクを」

インタビュアー:紫垣樹郎
文:児玉育美(JAAFメディアチーム)
写真:平岩亨

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