日本陸連では、「人の多様性を認め、受け入れて活かすこと」を意味するダイバーシティ&インクルージョンを重視し、さまざまな場面で、推進に取り組んでいます。この実現を目指して、関係者個々の知識や認識を深めるため研修活動を展開。12月5日には、事務局員を対象に、陸上競技界のダイバーシティ&インクルージョンを、多様な性のあり方から考えていく研修を行いました。
日本陸連は、2017年に「JAAF VISION 2017」を発表し、ミッションに「国際競技力の向上(トップアスリートが活躍し、国民に夢と希望を与える)」と「ウェルネス陸上の実現(すべての人がすべてのライフステージにおいて陸上競技を楽しめる環境をつくる)」の2つを据えたうえで、2028年段階および2040年段階のビジョンを定め、達成に向けたテーマを明文化( https://www.jaaf.or.jp/pdf/about/jaaf-vision-2017.pdf )。さらに、2018年には「JAAF REFORM」プロジェクトを立ち上げて「JAAF VISION 2017」実現のための中長期計画の策定を開始、2022年2月に中長期計画「JAAF REFORM~新たなステージへの挑戦~」を発表しました。この中長期計画においては、日本の陸上界を持続的に発展させていくことを期して、より具体的なアクションプランを設定し、達成までの道すじを明確化させています( https://www.jaaf.or.jp/pdf/about/reform_jp.pdf )。
こうした取り組みの根底に流れているのが、「ダイバーシティ&インクルージョン」の精神です。ダイバーシティ(diversity)は「多様性」を、インクルージョン(inclusion)は「包括・受容」を意味し、「性別や年齢、国籍、価値観、ライフスタイルなどのあらゆる違いを受け入れ、尊重し、すべての人がそれぞれの個性を発揮して活躍できる社会の実現を目指す考え方」と言い換えることができます。
日本陸連では、組織内におけるダイバーシティ&インクルージョンはもとより、国内を統轄・代表する団体として、日本陸上界を持続的に発展させていくための施策のすべてにおいて、ダイバーシティ&インクルージョンの精神を不可欠なものと捉え、その推進に少しずつ取り組み始めました。今年6月に行われた役員改選では、外部理事は26.7%(8名)、女性理事は43.3%(13名)となり、その成果は少しずつ形になってきています。
今回の研修は、そうした背景も踏まえて、競技団体としてのダイバーシティ&インクルージョンの実現を加速・深化させるべく、関係者個々の認識や理解を深めていく機会として設けられました。日本陸連事務局の職員を対象に実施した今回は、2023年度中に予定している研修の1回目となるもの。陸上界におけるダイバーシティ&インクルージョンを「多様な性のあり方」という視点から考えていく講義が行われました。講師を務めたのは、2021年から日本陸連理事を務め、今年度から常務理事に就任した來田享子氏(※1)です。
講義をスタートさせるに当たって、來田常務理事は、多様性という言葉が持つ幅広さに触れ、「これについて考えていくときには、まず、ターゲットセッティングをしっかりすることが必要」として、今回の研修におけるターゲットを「多様な性のあり方」に定めて進めていくことを明示。來田常務理事が「この問題への関心が高く、より良い社会のために重要なテーマを捉えている」と挙げたZ世代といわれる1990年代中期から2010年代初期に生まれた年代(2023年時点で、20代前半から10歳前後)は、ちょうど陸上競技と出会い、取り組んでいく年代と重なります。
また、「陸上競技のエリートレベルでは、競技の公平性を確保していくために、トランスジェンダーの女性やDSDs(※2)の人々の参加を制限せざるを得ないという状況が生じている。この現状があるからこそ、なおさらに、“自分たち(陸連)は、多様な性のあり方に関して、より強力にダイバーシティ&インクルージョンを推進している”という姿勢を明確に示し、実際に行動していく必要がある」と強調。この点を「今回の研修で、皆さんと一緒に共通して持ちたい問題意識」として掲げたうえで、性のあり方に関して、基礎的な知識、国内や陸上競技界における現状、現状や課題を踏まえ自分たちに何ができるのか、という3つのステップで話を進めていきました。
性のあり方に関する基礎的な知識
基礎的な知識として示されたのが、「性を構成する要素」です。「性」は、これまで長く「男/女」の2つに分けられてきましたが、実はとても多様で、きっぱりと2つに分けられるものではないことが明らかになり、近年になって社会的にも容認されるようになってきました。來田常務理事は、現在、人の性別を構成する要素として、出生時に割り当てられた性、心の性(性自認)、好きになる性(性的指向)、社会的な性(性表現)の4つを挙げ、「人間は、この4つの要素の組み合わせでできていること、人によって異なることが認知されるようになった」と説明しました。また、「こうした多様な性のあり方を社会が容認していくなかで、どんどん増えている」として、多様な性に関する用語が紹介されました。ここでは事務局職員が、LGBT、LGBTQ+、セクシャリティ、アウティング、トランスジェンダー、DSDs(※2)など14の用語を、Googleフォームのアンケート機能を用いて「知っている」「なんとなく知っている」「知らない」で回答。その後、結果を一緒に見て、解説や用い方のレクチャーを受けていくなかで、「陸連職員という集団のなかで、どういう知識があり、どういう知識が足りていないかを組織として把握し、自分の弱点や前に進む力を確認する」(來田常務理事)作業が行われました。
国内および陸上競技界における現状
続いて、国内および陸上競技界における現状が示されました。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(※2)および、この4つに分類されない/されたくない者を含む性的マイノリティすべてを指す「LGBTQ+」当事者の国内における割合は7~9%。30人いれば2~3人が該当することになるにもかかわらず、差別や排除が起きやすいため、3人に1人が自殺を考えたり実際に14%が自殺未遂を経験したりしているという衝撃的な事実が示されました。いじめの被害や自傷行為の確率も高く、「非常に深刻な問題であることを受け止めておく必要がある」と來田常務理事。当然、スポーツとの関わりのなかでも、多くの困難が存在することが明らかになっており、具体的な事例も示されました。こうした背景もあって、日本スポーツ協会における「体育・スポーツにおける多様な性のあり方に関する教育・啓発」プロジェクトの調査によれば、指導者のLGBTという言葉の認知度や知る必要性の認識は、この5年で大きく上昇したものの十分とはいえず、2023年の調査では「指導者講習の内容に含めて欲しい(40.6%)」「情報が欲しい(39.4%)」「スポーツ組織に具体的な対策をとってほしい(28.4%)」という要望も上がっていることが報告され、具体的な対策や適切な情報提供などのアクションが、現場から求められていることを改めて認識する形となりました。
図1:トランスジェンダー・DSDs選手をめぐる議論
また、陸上競技界における現状について、歴史的な背景を踏まえつつ、トランスジェンダーやDSDsのアスリートの参加資格を巡って長く議論が行われてきたことに触れ、「包摂性、平等、差別や排除がないことを目指したいが、競技の公平性をどう確保するか。“競技の老舗”といえる存在で、競技結果と個人の身体状況が可視化されやすい陸上競技の場合は、この2つを天秤にかけてバランスをとることが非常に難しい」と説明(図1)。
現段階では、ワールドアスレティックス(WA)は、暫定的な措置であることを明言したうえで、「女子カテゴリーの公平性を守る」原則に基づき、トランスジェンダー女性およびDSDsの競技者の参加に一定の基準を設けています(注:2023年3月末のWAカウンシル理事会にて承認・発表。https://worldathletics.org/news/press-releases/council-meeting-march-2023-russia-belarus-female-eligibility )。來田専務理事は「実際に(ワールドランキング対象種目と世界大会に)出場できていない競技者が存在するわけで、こうした人たちの参加の権利をどうやって守り、一方で公平性をどう確保するか。このことは、引き続きエリートレベルでは検討を進めていく必要がある」と投げかけました。
私たち競技団体が目指すこと、今できることは?
そして、研修は「現状を踏まえたうえで、陸上競技界のダイバーシティ&インクルージョン推進のために、日本陸連が組織として、どういう行動を起こしていく必要があるのか」という話題へと移っていきました。「推進していくためには、戦略的に動いていく必要がある」と來田常務理事。具体策として次の点を挙げました(図2)。・知識や価値観を共有する。「競技の公平性」の問題はあるものの、“我々は差別や排除のない陸上界を目指していくんだ”ということを徹底した価値として共有することがとても大切、
・啓発活動を推進する、
・「当事者がいるに違いない」という前提のもとで、安心・安全な環境の構築を目指す、
・生涯スポーツのレベル、ウェルネス陸上実現に向けたアクションなど、非エリートレベルにおいてのインクルーシブな競技運営は可能。その方策を探っていく、
・メディアと良好な関係を築く。日本陸連が、よりポジティブに差別や排除のない陸上界を目指した取り組みを進めていることを、メディアを介して広く伝えていくことは、それだけで希望となる、
・陸連内部から加盟団体へ、さらに競技会等を通じて社会へと段階的に広げていくことで、波及効果を最大に引き出す。
最後に、対応に際して、失敗しがちな事例をいくつか挙げて、何が問題であるのかを具体的に説明。そして、各自が今すぐできることとして、①LGBT、LGBTQ+は、個人の尊重、個人のプライバシーの権利と認識する、②安心して話せる相手であることを示す:ポジティブな発言、③深刻な苦悩であることを理解する、④多様性を尊重する環境を整える、の4つを示して講義を終えました。
図2:推進のための戦略の全体像
その後の質疑応答では、「非エリートレベルでインクルーシブな競技運営に関して何か明文化している団体はあるのか」「WAの設けている規定は、それを証明する必要があり、世界レベルではWAが管轄することになるが、国内においても、将来的に審査する機関を設ける必要が出てくるか」「今後の競技会におけるLGBTQ+の参加カテゴリーは、どう考えればよいか」「WAから競技役員(審判)のジェンダーバランス(男女比)について強い指摘が出ている。日本としては、今後どのような対応が必要になると考えるか」「競技会開催に際して、対象を性別で区分する設定を行うことの是非」など、実際に最前線で業務に取り組むなかで、その大切さを肌で感じている職員ならではの質問が上がりました。來田常務理事は、考え方の原則や他競技団体の実例や課題の紹介、さらには発展的な取り組みの提案を行うなどして、それぞれの問いに回答。より内容を充実させた形で研修を締めくくりました。
約1時間強の講義を終えた來田常務理事は、「差別や排除をしてはいけないという緊張・萎縮した気持ちで向き合うのではなく、“そうか、人間はこんなにも多様で、それでいて陸上競技を愛するという共通性を持っているんだ”ということに希望を持ってほしい。言葉を選ばずに言うのなら、“楽しんで”取り組めればよいのではないかと思っている」というコメントを寄せています。
※1)來田享子(らいた・きょうこ):日本陸連常務理事。中京大学スポーツ科学部教授として教壇に立つほか、(一社)日本体育・スポーツ・健康学会会長、日本スポーツとジェンダー学会会長、日本オリンピック委員会理事、日本スポーツ協会スポーツ医・科学委員会委員など、さまざまな組織で幅広く活躍。専門分野はスポーツ史、オリンピック教育、スポーツとジェンダーで、スポーツにおけるジェンダー問題では第一人者の一人として広く知られている。
※2)本稿に記載した「多様に関する用語」の解説
・レズビアン(Lesbian):女性同性愛者。女性に対して魅力を感じる女性。
・ゲイ(Gay):男性同性愛者。男性に対して魅力を感じる男性。
・バイセクシュアル(Bisexual):両性愛者。男女両方に魅力を感じる人。
・トランスジェンダー(Transgender):生まれたときに割り当てられた性別とは異なる性自認を持つ人、性自認が男女2つのカテゴリーに収まらない人、社会的に期待される性役割やジェンダー表象に収まらない人などの総称。
・LGBT:レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとった略語。
・LGBTQ+:LGBTにクエスチョニング(自らの性について特定の枠に属さない/わからない)またはクィア(規範的な性のあり方以外の総称)の頭文字を示すQと多様な性のあり方を包括的に表す「+」を加えた略語。性的マイノリティの総称として用いられる。
・セクシュアリティ:身体の生物学的な性、性自認、性的指向、性表現の4要素で構成される、その人の性のあり方全般のこと。生物学的なレベルでの活動と、社会的・文化的に形成された「女らしさ/男らしさ」の意識や行動(ジェンダー)が、どちらも含まれている。
・DSDs:Differences of Sex Developmentの略。生物学的な意味での身体の性の様々な発達。「これが女性の身体の構造・これが男性の身体の構造とされている固定観念とは、生まれつき一部異なる体の状態の女性・男性」のこと。医学的には「性分化疾患」、一部欧米の政治運動では「インターセックス」とも呼ばれているが、当事者の人々はそうした包括用語をアイデンティティのようにされることを拒否しており、「アンドロゲン不応症」や「ターナー症候群」など身体状態を「持っている」と認識している。
・アウティング:第三者が本人の同意なく性的指向や性自認などを漏らしたり暴露したりすること。
※3 図はすべて來田常務理事提供資料。
文:児玉育美(JAAFメディアチーム)