2019.04.03(水)選手

【MGCファイナリスト】神野大地選手インタビュー Vol.1




9月15日に行われる東京オリンピック男女マラソン代表選考会「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」出場権を懸けて行われる「MGCシリーズ」第2ステージ(2018-2019シーズン)は、3月10日のびわ湖毎日マラソンと名古屋ウィメンズマラソンをもって、男女ともにすべてのレースが終了。あとは、2019年4月30日までにワイルドカードでの新た資格獲得者を待つばかりとなりました。現在、上記の2大会終了時点で、男子は30人、女子は14人の選手がMGCへの出場を決めています。

今回のMGCファイナリストインタビューは、神野大地選手(セルソース)ご登場いただきました。神野選手は、2018年東京マラソンで2時間10分18秒をマーク。それから3レース目となる2019年東京マラソンを2時間11分05秒でフィニッシュし、対象2大会の平均が2時間11分00位内のワイルドカードをクリアしてMGC出場を決めました。

目指す結果を出すためにプロアスリートへの転向を決断。ケニア合宿を組むなど独自で強化に取り組んできた神野選手に、自身の陸上競技への向き合い方やこれまでの道のりをお聞きするともに、MGCに向けての取り組みを伺いました。

 

◎取材・構成/児玉育美(JAAFメディアチーム)
◎写真提供:フォート・キシモト

 


1年越しで実現させたMGC出場権獲得 

―――MGC出場権を獲得した東京マラソンから2週間ちょっと経ちました。少しは、ひと息つくことができたのでは?

神野:そうですね。ここまでMGC出場資格を取れないという結果が続いていて、マラソンが終わってからも、次に向けて早くスタートしなくちゃいけないという思いでずっとやってきていましたから…。やっと今回の東京マラソンで取ることができ、MGCまでには半年の期間があるので、いつもよりはゆっくりできたなという感じです。

―――まず、東京マラソンのレースを振り返っていただきましょう。当日は、非常に寒いなかでのレースでした。神野選手は第2ペースメーカーの集団でレースを進めていたわけですが、15km過ぎで思いがけず集団から遅れる展開に。しかし、そんななか終盤で盛り返し、徐々に順位を上げていってのフィニッシュとなりました。

神野:今回の東京マラソンに関しては、最低限MGC出場権を確実に取るというところが目標だったので、タイムを気にするというよりは、結果的にMGC(出場権)がしっかり取れればいいという思いで走りました。その前の福岡(国際マラソン)までのレースで、MGC(出場権を獲得するための)のタイムばかりを気にして、(集団から)離れたときも「あと何秒遅れたらいけないのかな」というようなことばかりで頭がいっぱいになって、いいレースができなかったという反省があったので、MGCのためのタイムも必要ではあるけれど、「レースを楽しむ」「絶対に最後まであきらめない」という2つを自分のテーマとして臨んでいました。15km過ぎで遅れたときも、一瞬、ヤバいかなとは思いましたが、冷静にスタート前の気持ちを思い返して、それを自分に言い聞かせて最後まで走ることができました。

―――悪天候のなかだったからこそ余計に、その「あきらめない走り」が、順位を上げていくことにつながったように思います。

神野:雨で気温が低かったですし、コンディション的には最悪だったと思います。でも、自分自身は過去に雨でダメだったという記憶がなくて、なので、朝から雨が降っていても、いやだなという思いはあんまりなかったんです。なので、天候に気持ちが左右されることはありませんでした。そこは、ここまでの陸上人生で積み上げてきた経験というようなものが、マイナスの気持ちにさせなかったのかなとも思いますね。

 

 

女子の同級生より30秒遅い自己記録からスタート

―――陸上を始めたころのお話を聞かせてください。中学から陸上部に入っていたそうですが、当時は野球と掛け持ちだったそうですね。

神野:はい。野球はクラブみたいなところで小学校1年生からずっとやっていて、中学でも軟式のクラブチームに入っていました。野球のクラブチーム入っていたら中学校では野球部には入れないルールだったので、それで部活動は陸上部に。月~金は陸上部で、土日が野球という毎日でした。

―――そんななか、中学2年の秋から陸上部のほうにシフトしていった…。

神野:陸上のためにというよりは、野球をやめたために、必然的に陸上一本になったという感じでした。本当は野球をやりたかったのですが、身体が小さかったこともあってクラブチームでもなかなか試合に出られず、限界を感じてやめたんです。だから、月~金だった陸上部の練習が、月~土になったという感じでしたね。

―――そのなかで高校でも陸上を、それも中京大中京高校という強豪校で続けていくことになったのには、どんな経緯があったのでしょう?

神野:陸上だけになったものの3000mで11分以上かかるレベルの選手でした。でも、次第に「練習をすればベストが出て、また練習を頑張ればベストが出る」という陸上の面白さや達成感にはまっていって、高校でも陸上をやりたいなと思うようになっていったんです。ただ、強い高校に行けるようなレベルではなかったので、普通に受験して進学するつもりでした。そんななか、中学3年の夏休みに、中京大中京に入った中学の先輩から「1回練習に来ないか?」と誘っていただいて練習に行ったことがきっかけで、声をかけていただくことになりました。

―――入学当時は、女子の選手よりもタイムが遅かったというエピソードを読んだ記憶がありますが、本当ですか?

神野:(笑)そうです。今でも忘れられないことですが、入学して、1人ずつ新入生が挨拶していくんですよね。僕は、そのとき3000mが10分27秒というのが自己ベストだったのですが、女子の同級生に、その後、ロンドン世界陸上(2017年)でマラソンン代表になる清田真央(現スズキ浜松AC)がいて、清田のベストは9分47秒で…(笑)。そういう屈辱的な状態からスタートしたんですよ(笑)。最初、夏になる前あたりまでは、清田と一緒に練習をしていました。本当にそのくらいのレベルだったんです。

―――なんと、その「女子の選手」というのは、清田選手だったのですね。

神野:そうなんです。まあ、清田が速かったというのもあるのですが…(笑)。

―――そうしたスタートから、練習を積み重ねていくなかで記録を伸ばしていったのですね。高校2年のときにインターハイ愛知県大会で4位に入賞し、秋の県高校新人や東海高校新人では優勝しています。

神野:その高2の夏で、僕の人生は大きく変わったなと思います。それまでも自分のなかでは毎回ベストという形でレベルを上げていたのですが、それでも1年のときの5000mは15分26秒台。強い選手だったら14分40秒とかを1年生で出すので、県でも注目される選手ではなかったのですが、高2の県大会でいきなり14分49秒18をマークして4位に入ったんですね。ラストの直線を5人くらいで競り合う状態だったのですが、みんな「誰だ、こいつ!?」(笑)みたいな感じでした。でも、それがきっかけで豊川工業とか強い三河地区の選手たちと交流するようになり、次はそういう人たちに勝ちたいと思うようになり、さらに練習を頑張るようになっていったんです。

―――得意のレースパターンは、あったのですか?

神野:特にないですが、きついところで簡単にあきらめない、粘るというレースを心がけてやっていくと、大きく自己ベストから遅れるというほとんどなかったです。

―――あまり外れることのないタイプだった。

神野:そうですね。長距離種目は「本当に気持ちが大事」と、いつも思っているんです。だから、きつくなってからも「いや、まだ行ける」という思いで、高校のときからずっとやっていましたね。

―――そうして、5000mでは3年時には14分13秒88まで記録を伸ばしました。インターハイや全国都道府県男子駅伝にも出場。インターハイは、予選で敗退していますね。悔しさとかはあったのでしょうか?

神野:3年生のときは、インターハイ出場を目標にずっとやってきていて、県大会(3位)も全力、東海大会(3位)も全力でした。でもインターハイで本当に戦えるのは、県大会とかの段階では、全国を意識した練習をやっていて、そのなかでもきちんと通過していける選手なんですよね。県や東海で僕が勝った愛知県の選手がインターハイで入賞しているのですが、そういう選手と自分を比較したときに、まだまだ自分は弱い選手だったのだろうなと思いましたね。

 

 

節目ごとの「奇跡」に導かれて

―――そして、青山学院大学へ進学します。きっかけは、合宿先で走っていた神野選手の走りが、原監督の目に留まったことだったということでしたが…。

神野:はい。僕の人生は、奇跡の連続という感じなんです。まず中京大中京に入れたのも僕の中では奇跡なのですが、高校2年のこのときもそうでした。高校の夏合宿を長野県の菅平のクロスカントリーコースで行っていて、そこは中学生や高校生、大学生とたくさんの人が走っているという場所だったのですが、たまたま同時期に青山学院大学の合宿に来ていた原晋監督が、何百人もいる選手のなかで僕の走りに目に留まったそうで、その日の夜に宿舎まで会いに来てくれたんです。原監督は、僕の名前も、僕の自己ベストも全く知らず、まず、「君の名前はなんだ?」と聞かれて、「あ、神野大地です」と…。

―――なんと、そこから!

神野:はい(笑)。そして、「今、5000mは何秒で走るんだ?」と聞かれて、「14分49秒です」と答えました。実は、青学には、14分40秒を切らないと入れないというルールがあるんですね。そこに届いていなかったわけですが、そのときに原監督から、「君は走りがいいから、夏が明けたら必ず14分40秒は切れる。一緒にやろう」と言っていただいたんです。僕も、大学は関東に進みたいという思いがあったのですが、それが初めてのお誘いだったので、とても嬉しかったことを今でも覚えています。

―――「走りを見て」、というところがまた嬉しいですよね。

神野:そうですよね。そのあと、すぐに14分32秒43が出て、もちろん原監督からはその後、正式にお話をいただきました。タイムが出てからは、ほかの大学の監督さんからもお誘いをいただくようになったのですが、それってタイムがあって名前が知って、初めて来てくれるということ。原監督の場合は、何も知らない状況のなかで、僕の走りを評価してくれたわけです。もちろん迷いはしましたが、何も知らない段階で「いい」と思ってくれた、そういう監督のもとでやりたいなと、青学への進学を決めました。

―――青山学院大学入学後は、すぐに日本ジュニア選手権で3位に入って、アジアジュニア選手権の代表に選ばれ、銀メダルを獲得しています。これが初めての日本代表ですね。渡航経験自体はあったのですか?

神野:初めてです。

―――それでいきなりスリランカのコロンボへ。「どこ?」って感じだったのでは?

神野:大変でした、いろいろ(笑)。ただ、初の海外ということよりも、日本代表というのは簡単になれることではないので、それが経験できたことはすごくよかったですね。

―――その一方で、大学に入ってからは伸び悩みも経験しました。故障もあったそうですね。

神野:はい。チームのなかで10~11番目と、箱根駅伝を走れるかどうかぎりぎりのラインだったんです。(疲労骨折で)足が痛くなってからも1カ月半くらいは痛みのある状態のなかでずっと無理していました。結局、12月に入ってからの合宿で痛みに耐えられなくなり、最終的に16人のメンバーにも入れないという、かなり悔しい思いをしました。

―――そのケガから回復して以降は順調に記録を伸ばしていくことになります。何かきっかけでもあったのですか?

神野:我慢して走っていたこともあって、ケガから治るのには時間がかかりました。そして、アジアジュニアとかには出たものの、大学駅伝のレースに出場するこができなかったので、「自分には無理かも」と気持ちが後ろ向きになる時期もありました。でも、それで僕が陸上をやめたとして、いったい何ができるのかと考えたときに、何もないなと思ったんです。故障の期間中に、自分の原点に返って「僕には走ることしかない。頑張るしかない、走り続けるしかないな」という思いに変わって、治ってもう1回スイッチを入れてやった結果、2年生からはチームの主力になれました。だから、1年生のときは結果的に箱根駅伝には出られなかったけれど、そこに向けての努力の成果が半年後に出てきて、2年生以降の大学生活につながったのかなと思いますね。

―――その過程は、なんだか今回のMGC出場権を獲得するまでのマラソン挑戦の軌跡と似ているように感じます。うまくいかないなかで地道に積み重ねていくことをあきらめずにやっていくところが。

神野:そうかもしれません。

―――大学2年以降、順調に結果が出るようになって、3年時に箱根駅伝で快走してからの躍進は、誰もが知るところです。大きく注目される存在になりましたが、ご自身に何か変化はあったのですか?

神野:それまではチームの誰かに勝ちたいとか、チームのなかでトップになりたいとかいう思いでやっていましたが、大学2年のころあたりから、それが「学生界のトップになりたい」という思いに変わっていったように思います。

―――卒業後は、コニカミノルタへ入社しました。その経緯は?

神野:これもまた奇跡で…(笑)。実は、大学2年のころから、社会人で競技をやるのだったらコニカミノルタでやりたいという思いがあったんです。というのも、僕は宇賀地強さんに憧れていて、目標にしてきたなかで、その宇賀地さんが進んだことでコニカミノルタというチームを知り、駅伝とかを見るとすごく強かったのと、いろいろな先輩から、「コニカミノルタはチームとしてすごく厳しくやっている」という話を聞いたので、そういうところでやりたいという気持ちがありました。そんなときに、当時1部校だった2年生のときの関東インカレの10000mに出て、結果は14位だったのですが、上位5~6人が本当に強い、誰もが知っている選手たちの集団で僕も走るという(笑)、攻めのレースをしたんですね。その走りを見たコニカミノルタのコーチが来てくださって、「1回夏合宿にでも来ないか?」と声をかけていただき、合宿に参加させていただいたことが縁になりました。合宿に参加できたことだけでも、すごく成長できるきっかけにもなりましたし、そうやって自分の人生を振り返ると、節目、節目のタイミングで、すごく恵まれた出会いがあったなと思いますね。




オリンピックに出るのなら、僕にはマラソンしかない

―――神野選手が「マラソンを走りたい、走ろう」と思うようになったのはいつですか?

神野:大学3年のときです。青山学院大学に入ったときは、「箱根駅伝に出たい」という思いだったわけですが、実際に出場することができて目標がかなって、じゃあ、「次は何を目標にするんだ?」と考えたときに、「もうマラソンしかないな」と。マラソンがやりたいというよりは、トラックでは勝負できないから、勝負するならマラソンだろうなという一択でした。オリンピックに出るのなら、僕にはマラソンしかないだろうなという思いで、マラソンランナーとしてやっていこうという覚悟を決めました。

―――それは、5区の区間新記録で総合優勝に貢献した大学3年の箱根駅伝のあとですか?

神野:はい。そのころ原監督が選手に「マラソンに出ないか?」ということを言うようになっていたんです。僕はすぐには出ませんでしたが、そういう監督の声かけもあって、自分自身もマラソンをやりたいなと思うようになりました。

―――マラソンにはすぐ挑戦していませんが、その年には箱根駅伝のあと、丸亀ハーフに出てハーフマラソンを1時間01分21秒で走っています。成績を拝見した印象としては、中学や高校時代なども3000mとか5000mとかでは(距離が)短かったのでは? 高校3年のときには、日本ジュニア選手権の10000m(注:当時は、5月に長距離と競歩を別開催で実施していた)で2位の成績を残しています。実は、その段階で、長い距離のほうが得意だったのかなという印象を持っていたのですが…。

神野:僕にはもともとのスピードがありません。例えば、(1km)3分ペースで走れるスピードはあるけれど、2分40秒を切るスピードはない。5000mで戦うとなると2分40秒を切っていかなければならず、そういうレースはできないわけです。けれど、逆に3分ペースで長く走ることは、ほかの人よりもできるという思いがあったので、結果的に距離が長くなっていったというのはありますね。あとは、陸上をやり始めた中学のときからずっと「陸上は努力をすれば世界につながる種目」だと思っていました。まさにマラソンはその言葉がぴったりで、練習をすれば結果がついてくる競技。自分には合っているんじゃないかなという思いでやっていますね。

 (2019年3月19日収録)


>>【MGCファイナリスト】神野大地選手インタビュー Vol.2

>>マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)いよいよ9月15日開催

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